もう一度読み返したい! 名作童話の世界。
小社刊、宮川健郎編・名作童話シリーズ『宮沢賢治20選』に収録した、
<宮沢賢治童話紀行>を3回に分けて転載いたします。
作家の生誕地、作品が書かれた場所、空間を知ることによって、
より作品の世界を理解することができるでしょう。

花巻農業高校の賢治像。

修羅のなぎさ
 夏のおわりに、花巻へ行った。岩手県花巻市、宮沢賢治と賢治童話のふるさとである。最初に行ったのは、「イギリス海岸」だった。
「夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。
それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢(つちざわ)を過ぎ、北上山地を横截(よこぎ)って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。」
 これは、宮沢賢治の童話というよりは、小品とでも呼びたい散文「イギリス海岸」の書き出し。賢治は、北上川の岸を「イギリス海岸」に見立て、いわば、川岸に「イギリス海岸」という物語をあたえた。──「日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひび割れもあり、大きな帽子を冠ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊(はくあ)の海岸を歩いているような気がするのでした。」「それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。なぜならそこは第三紀と呼ばれる地質時代の終り頃、たしかにたびたび海の渚だったからでした。」
 つぎは、賢治の作詞・作曲による歌曲「イギリス海岸の歌」。──「Tertiary the younger Tertiary the younger/Tertiary the younger Mud-stone/あおじろ日破(わ)れ あおじろ日破れ/あおじろ日破れにおれのかげ/Tertiary the younger Tertiary the younger/Tertiary the younger Mud-stone/なみはあおざめ 支流はそそぎ/たしかにここは修羅のなぎさ」
 文語詩稿「〔川しろじろとまじはりて〕」下書稿(一)には、「濁りの水の/かすかに濯(あら)ふ/たしかにここは修羅の渚」ともある。賢治が「おれはひとりの修羅なのだ」(「春と修羅」)と書きつけたことは、よく知られているが、「修羅」は仏教用語で、「阿修羅」を略したもの。辞書によれば、「阿修羅」はインド神話の悪神。阿修羅が嫉妬深くて戦いを好んだことから、「修羅」は、ねたみ、猜疑心から起こる争い、激怒、情念などのたとえともされる。よくいう「修羅の巷」などは、この意味だ。つまり、「修羅」は、人間存在の暗黒面をあらわすものだろう。賢治は、この川岸にも、人間の情念が繰り返し打ちよせたと考えたのか。

「イギリス海岸」へと降りていく入り口。

 賢治が北上川にあたえた「イギリス海岸」という物語は、やがて、「銀河鉄道の夜」という、もっと大きな物語に発展していくことになる。ジョバンニとカムパネルラは、白鳥停車場で汽車を降り、天の川の河原に出てみる。そこは、「プリオシン海岸」という、きれいな河原で、大学士たちが化石を掘り出していた。大学士はいう。──「それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここ百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしていたのだ。」
 作品「イギリス海岸」には、水泳ぎの危険について述べたところがある。
「おまけにあの瀬の処では、早くにも溺れた人もあり、下流の救助区域でさえ、今年になってから二人も救ったというのです。いくら昨日までよく泳げる人でも、今日のからだ加減では、いつ水の中で動けないようになるかわからないというのです。何気なく笑って、その人と談(はな)してはいましたが、私はひとりで烈しく烈しく私の軽率を責めました。実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、ただ飛び込んで行って一緒に溺れてやろう、死ぬことの向う側まで一緒について行ってやろうと思っていただけでした。全く私たちにはそのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。そして私は、それが悪いことだとは決して思いませんでした。」
 上の「私」の思いは、「銀河鉄道の夜」では、カムパネルラが川にはまってザネリを助けようとして死ぬというモチーフに変形されている。マルソがジョバンニにいう。
「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」「どうして、いつ。」「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」
「死ぬことの向う側まで一緒について行ってやろう」というモチーフは、「ひかりの素足」にも見出せる。
 夏のおわりに、「イギリス海岸」へ行った。ところが、北上川は水位が高く、白い泥岩の露出した「白堊の海岸」を見ることはできなかった。ここ十年来、ダムによる水量管理がすすみ、「白堊の海岸」は失われてしまった。私は、現在の北上川の風景のなかにいて、「イギリス海岸」を幻視したのである。そして、北上川を「イギリス海岸」と見る、そこにこそ、宮沢賢治の想像力のかたちがあるのではないかと考えた。

「イーハトヴ」という想像力
 中村稔は、賢治の作品は「エスペラント風のバタくささ」をもっているというが(『定本宮沢賢治』1962年)、「イギリス海岸」という言い方だって、やはり、そうだ。「エスペラント風のバタくささ」といえば、「イーハトヴ」ということばが、まっ先に思いうかぶ。1924(大13)年12月に、杜陵出版部と東京光原社を発売元として出版された童話集『注文の多い料理店』は、「イーハトヴ童話」と銘打たれていた。小倉豊文は、「イーハトヴ」を「創作されたエスペラント風の岩手県の異称」とした(角川文庫版『注文の多い料理店』解説、1956年)。賢治は、世界語であるエスペラントを熱心に学んだ。「氷河鼠(ひょうがねずみ)の毛皮」でも「イーハトヴ」だが、「グスコーブドリの伝記」では「イーハトーブ」だ。そのほかの詩や童話では、「イーハトブ」や「イーハトーボ」「イーハトーヴォ」などの表記もある。童話集『注文の多い料理店』が刊行された際の広告ちらしには、「イーハトヴ」について、こんなふうに書かれている。
「イーハトヴは一つの地名である。強(しい)て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿(たど)った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。
実にこれは著者の心象◦◦◦◦◦中に、この様な状景をもって実在した
ドリームランドとしての日本岩手県である。(この行改行赤刷り)
そこでは、あらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。
罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいにかがやいている。
深い掬の森や、風や影、肉之草や、不思議な都会、ベーリング市まで続く電柱の列、それはまことにあやしくも楽しい国土である。」(圏点原文。原文では圏点は赤刷り)
「イーハトヴ」とは、「著者の心象◦◦◦◦◦中に(中略)実在したドリームランドとしての日本岩手県」のことだという。不順な天候、それによる不作、凶作、それによる貧困。宮沢賢治が生まれ、生きたころの「日本岩手県」は、いろいろな問題をかかえていたはずだ。賢治は、その「日本岩手県」に重ねて、「罪や、かなしみでさえ(中略)聖くきれいにかがやいている」土地、「あやしくも楽しい国土」を幻視する。「イーハトヴ」と「日本岩手県」、これは、重なり合う二つの風景だといえる。賢治の詩、賢治のいう心象スケッチ「春と修羅」の詩句を借りれば、「二重の風景」である。──「すべて二重の風景を/喪神の森の梢から/ひらめいてとびたつからす」
 本書には、童話集『注文の多い料理店』から、「どんぐりと山猫」「狼森(おいのもり)と笊森(ざるもり)、盗森(ぬすともり)」「注文の多い料理店」「かしわばやしの夜」をおさめたが、童話集の「序」は、こんな書き出しだった。
「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたベ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。」
「ひどいぼろぼろのきもの」とは、まずしい農民のものだろうか。賢治の家は、農民を相手にする質屋で、古着商だった。「わたくし」は、その「ひどいぼろぼろのきもの」が「びろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見」たというのだ。

宮沢賢治イーハトーブ館(岩手県花巻市)。

さいかち淵で
 花巻へ行った。今回の旅は、同行三人。写真家の坂口綱男さんと、坂口さんのアシスタントをつとめてくださったIさん、そして、私である。東北新幹線の新花巻駅でレンタカーを借りて、まず、「イギリス海岸」へ行き、そのあと、宮沢賢治記念館と同イーハトーブ館へ。
 宮沢賢治記念館は1982年、記念館の情報・研究センターであるイーハトーブ館は1992年に、いずれも花巻市によって建設された。記念館は、胡四王山(こしおうざん)の中腹にあるが、その胡四王山は、宮沢賢治が「経埋ムベキ山」とした一つである。賢治は、「雨ニモマケズ」を記したのと同じ手帳に、「経埋ムベキ山」三二を列挙している。「経埋ムベキ」の経とは妙法蓮華経で、経典を後世に残すため、経筒にいれて地中に埋める「埋経」を意図している。この「経埋ムベキ」という賢治の願いは、没後、遺族によってかなえられた。

道地橋から、さいかち淵をのぞむ。

安野橋から見た猿ヶ石川。

 記念館のあとは、また、川へ。童話「風の又三郎」にも登場する、豊沢川のさいかち淵へむかった。「日本岩手県」に重ねて「イーハトヴ」を見、「ひどいぼろぼろのきもの」が「びろうどや羅紗や、宝石いりのきもの」にかわっているのを見たという宮沢賢治の想像力がもっともよくあらわれた童話が「風の又三郎」だろう。
 秋。9月1日、山の村の小学校でも、新しい学期がはじまった。その朝、いちばんに登校した1年生が教室のなかを見ると、「そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座っていたのです。」
「おかしな赤い髪の子供」は転校生で、先生は「高田三郎さんです。」と紹介するけれど、5年生(?)の嘉助は、「あいつは風の又三郎だぞ。」と言い出す。「あいつ何かするときっと風吹いてくるぞ。」というのだ。「風の又三郎」とは、土地に言い伝えられた風の神様の名前らしい。この嘉助の意見にほかの子どもたちも呑み込まれてしまうけれど、嘉助の意見にいちいち疑問を差しはさんでいくのが6年生の一郎だ。私たちが嘉助に身をよせながら読めば、童話「風の又三郎」は、風の神の登場する空想的な物語として読める。ところが、一郎の目の高さで読めば、村の小学校を舞台とする日常物語に見えるのだ。「風の又三郎」は、一つの物語でありながら、二つの物語だといえる。作品のなかには、「日常」と「ふしぎ」が重なり合い、ないまぜられるように同居している。「風の又三郎」は、「日常」と「ふしぎ」という二重性をかかえこんだ両義的な物語だ。「日常」と「ふしぎ」といったものを「日本岩手県」と「イーハトヴ」といってもよい。童話「風の又三郎」は、「二重の風景」を生み出す装置なのだ。
 さいかち淵から、一度、新花巻駅にもどる必要があった。途中、猿ヶ石川にかかる橋を越えた。作品「イギリス海岸」にも出てくる猿ヶ石川だ。橋をわたりながら、私たちは、「あっ」といい、橋をわたったところで、運転していたIさんが車を止めた。夕暮れの川には、もやがかかり、現実の風景でありながら、幻想的な景色だった。坂口綱男さんが、橋の上から、それをカメラにおさめる。
 夏のおわりに、花巻へ行った。今回の旅は、現実の風景に賢治童話の世界を重ねていく「二重の風景」への旅になりそうだった。
生家と墓
 旅の二日め。朝、豊沢町の賢治生家へ行った。ここには、いまも、宮沢家の方がたが住んでいらっしゃるから、外から場所をたしかめる。その後、花巻温泉へ行き、賢治が設計した南斜花壇、日時計花壇を見る。そして、花巻市郊外(かつての大田村)の高村光太郎が暮らした山荘へ。

宮沢賢治生家。

午後は、賢治の羅須地人協会(らすちじんきょうかい)の跡(「雨ニモマケズ」の詩碑がある)と、協会の建物が保存されている岩手県立花巻農業高校。夕方は、賢治の墓がある身照寺へ行く。朝、私たちが、その前に立った生家と、夕方おまいりした墓のあいだに、宮沢賢治の生涯がある。
 宮沢賢治は、花巻で生まれ、花巻で死んだが、年譜で確認すると、つごう9回、上京している。この東京体験はそれぞれ重要で、東京体験から賢治の生涯を考えることもできる。賢治は、日本岩手県(という方言の世界)―イーハトヴ(エスペラントの世界)―東京(標準語の世界)のトライアングルのなかで生き、書いたのかもしれない。
著書紹介
『名作童話を読む 未明・賢治・南吉』春陽堂書店
名作童話をより深く理解するための一書。児童文学作家、未明・賢治・南吉文学の研究者による鼎談。童話のふるさと写真紀行、作家・作品をさらによく知るためのブックガイドを収録しています。
『名作童話小川未明30選』春陽堂書店
一冊で一人の作家の全体像が把握できるシリーズ。「赤いろうそくと人魚」で知られる、哀感溢れる未明の世界。年譜・解説・ゆかりの地への紀行文を掲載、未明の業績を辿ることができる一冊です。
『名作童話宮沢賢治20選』春陽堂書店
初期作品から後期作品まで、名作20選と年譜、ゆかりの地を訪ねた紀行などの資料を収録、賢治の業績を辿ることができる一冊です。
『名作童話新美南吉30選』春陽堂書店
初期作品から晩年の作品まで、名作30作を収録、南吉の身辺と社会の動向を対照した年譜8頁、ゆかりの地を辿る童話紀行を収録しています。南吉の業績を辿ることができる一冊です。
宮沢賢治童話紀行「二重の風景」への旅 【2】に続く
この記事を書いた人
宮川 健郎(みやかわ・たけお)
1955年、東京都生まれ。立教大学文学部日本文学科卒。同大学院修了。現在武蔵野大学文学部教授。一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団 理事長。『宮沢賢治、めまいの練習帳』(久山社)、『現代児童文学の語るもの』(NHKブックス)、『本をとおして子どもとつきあう』(日本標準)、『子どもの本のはるなつあきふゆ』(岩崎書店)ほか著者編著多数。『名作童話 小川未明30選』『名作童話 宮沢賢治20選』『名作童話 新美南吉30選』『名作童話を読む 未明・賢治・南吉』(春陽堂書店)編者。