日曜日にうまれるまんなかの愛みたいの
過剰でも欠乏でもない、まんなかの愛、みたいなものはないだろうか。
たとえばジム・ジャームッシュの愛をめぐる映画『ブロークン・フラワーズ』。ビル・マーレイがかつての恋人たちの元を地獄下りでもするように点々と旅をする。
マーレイはそのつど女性ひとりひとりから愛をもらうが、それは過剰でも欠乏でもない。まんなかの愛、だ。そこには決定的な愛はなく、マーレイが決断する機会も訪れない。
まんなかの愛の迷宮でマーレイはさまよいつづける。
いったいマーレイは誰を愛し・誰から愛されているのだろう。愛はいっちょくせんではない。愛はいろんな角度で、いろんな圧で、いろんな方向から、やってくる。おもいがけないやりかたで。けれど、おおきくもちいさくもなく、ちょうどいいサイズで。
まんなかの愛、にであえないだろうか。
あうなら、日曜日のサザエさんがやってるような時間帯がいい。おおめだなあとか、すくなめだなあとかも、おもわない。これくらいが、ここくらいが、まんなかなんだなあ、とおもうような愛。わたしがほんとうに愛されているのか、ほんとうに愛しているのかも、わからない。好きとか愛してるとかセックスもサザエさんのエンディングにとけあってわからなくなってしまう。
家族と呼ばれた影たちが小さな家に飛び込んでゆく。ありえたはずの愛の話を語り終えたあとで。
愛しているのか、愛されているのか、わたしは、ひとりだったのか、ふたりだったのか、ほんとうにこれが、このかたちが愛と呼べるのかはわからない。気づかなければ気づかないまま終わってしまうかもしれない。それでも、ここくらいがたぶん世界の愛のまんなかなんだなあ、とおもう。
月曜がちかづいている。でもまだ日曜がおわるには、ほんのちょっとの時間がある。チャイムが鳴る。花だ。