かなしみといかりとぼんやりとねむけと生きれ
連休中に大学の同級生の女の子にたまたま会う。東銀座で日比谷線に乗ったらパソコンを膝に乗せてなにかを考えこんでいるひとがいて、あ、と眼があったら、大学のときの同級生の女の子だった。なんにも変わっていなくて、なんかの魔法にかかってんじゃないかとびっくりした。
そのこがわたしに、大学のころ、こんなふうにいったことがある。「あくびってあるでしょ。あくびしてるしゅんかんって、ひとって、意識なくないかな? やぎもとくんって、あくびしてるとき意識ある? ないでしょ? なくない? あのとき、みんな、どこいってんだろ」
たしかにわたしもふしぎだなあとおもった。「あとさ、やぎもとくんって、髪、なんかくるくるしてんね。それどうなってんの、どうなってゆくの」
日比谷線で、そのひとと、たまたま会った。やすみのひに。
「あのね、さいきん、魔法にかけられたようにねむいんだよ。あついから? うーん、ちがうとおもうよ。あのね、こうかんがえてみたんだよ。それってね、低級の魔法なんだって。なんか魔法にかけられたわけ。でもね、低レベルなんだよ、だからね、ふかいねむりじゃなくてね、なんかね、たえずうとうとしてんの。そういうね、魔法にかかってるかんじなんだよね」
「え、そうなの。ぼくもね、さいきんね、魔法にかけられたみたいにねむいってかいたんだけど、え、なんか、気が合うのかなあ、魔法にかんして」
「あわないと、おもうよ」
わたしは家について、部屋にはいり、クーラーのしたで、うとうとする。もう、生とか死とかも、かんがえない。詩も文学もかんがえていない。ただ、うとうとしている。まどろんでいる。
「あのさ、うとうとしてるときって、生きる、とか、生きろ、じゃなくて、生きれ、だとおもうのね。なんかね、そうおもうのね」
それをあの女の子がいったのは、大学のときだったっけ、それとも、日比谷線でだっけ。「あ、おりなきゃな、じゃあね、またね、やぎもとくん」
でも、どうでもいいな、とおもう。
もちろん、魔法なんてないけれど、でも、だれが、魔法にかかってないことを証明できるんだろう。低級の魔法使いに魔法をかけられて、この夏、ずーっと、うとうとするのもいいなとおもった。
夏の終わりに魔法使いはじぶんの国に帰り、かのじょやわたしにかけられた魔法は解ける。
わたしははっきりと眼をひらく。秋のてまえで。
「生きろ、ではなく、生きれ、だとおもう。ねむたいときは、とくに。ほんのちょっとの、わずかな差で、生きれだと、おもう。そう、おもわない?」
「うん。おもうと、おもうよ」