もう一度読み返したい! 名作童話の世界。
小社刊、宮川健郎編・名作童話シリーズ『宮沢賢治20選』に収録した、
<宮沢賢治童話紀行>を3回に分けて転載いたします。
作家の生誕地、作品が書かれた場所、空間を知ることによって、
より作品の世界を理解することができるでしょう。

ニコライ堂の屋根
 1916(大5)年7月12日、日曜。この日、宮沢賢治は、夜汽車で上京する。この年3月の修学旅行以来、2度めの東京だ。8月1日から30日まで、神田区猿楽町(さるがくちょう)・東京独逸学院の「独逸語夏期講習会」にかよう。この期間中に、彼は、満20歳をむかえる。8月17日には、山梨県に帰省している保阪嘉内(ほさかかない)あてに封緘(ふうかん)葉書を出して、「私は毎日神田の仲猿楽町まで歩いて行って居ります。」と書いた。保阪は、賢治が在学した盛岡高等農林学校の友だちで、同人誌「アザリア」の仲間でもある。
 賢治が宿泊していた旅館のある麴町3丁目から、猿楽町のドイツ語学校まで歩いていくとすれば、道のりは、3キロメートルあまり。保阪嘉内あての葉書には、東京でよまれた短歌20首もしるされている。下記は、はじめの五首。
  神保町少しばかりのかけひきにやや湿りある朝日は降れり。
  するが台雨に銹びたるブロンズの円屋根に立つ朝のよろこび。
  霧雨のニコライ堂の屋根ばかりなつかしきものはまたとあらざり。
  青銅の穹屋根は今日いと低き雲をうれひてうちもだすかな。
  かくてわれ東京の底に澱めりとつくづく思へば空のゆかしさ。
 20歳の宮沢賢治が見た、1916年のニコライ堂=東京ハリストス復活大聖堂は、東京大震災で焼けるまえのそれだった。ニコライ堂のそびえたつ駿河台に対して、神保町や猿楽町は、坂の下の低地である。「かくてわれ東京の底に澱めりとつくづく思へば空のゆかしさ。」の「東京の底」という表現も、そのあたりから発想されたにちがいない。これらの歌に注目した入沢康夫は、「賢治は、(中略)家族や親類の束縛からの一時的なものにもせよ解放を一途に求めた」「直接にニコライ堂を歌った三首、そしてそれにつづく『かくてわれ』の歌には、そうした、『東京への脱走者』の解放感が底流している。」という(「東京」1983年)。
東京の底
 賢治の9回の上京のなかで、もっとも重要視されるのが1921(大10)年の家出だ。
 賢治は、21年1月23日の夕方、突然、花巻の家を出て、青森発上野行きの東北線にとびのる。24日朝には東京に着き、その日のうちに、「突然出京しました/進退きわまったのです」と保阪嘉内あての葉書に書きつけている。10月30日の関徳弥(花巻の親類。賢治を兄のように慕っていた)にあてた手紙には、出京のいきさつについて、つぎのように書いている。
「何としても最早出るより仕方ない。あしたにしようか明後日にしようかと二十三日の暮方店の火鉢で一人考えて居りました。その時頭の上の棚から御書が二冊共ばったり背中に落ちました。さあもう今だ。今夜だ。時計を見たら四時半です。汽車は五時十二分です。すぐに台所へ行って手を洗い御本尊を箱に納め奉り御書と一所に包み洋傘を一本持って急いで店から出ました。
途中の事は書きません。上野に着いてすぐ国柱会(こくちゅうかい)へ行きました。『私は昨年御入会を許されました岩手県の宮沢と申すものでございますが今度家の帰正を願う為に俄かにこちらに参りました。どうか下足番でもビラ張りでも何でも致しますからこちらでお使い下さいますまいか。』」
 賢治は、田中智学が創設した日蓮宗の団体、国柱会で「家の帰正を願う為に」というが、彼は熱心な浄土真宗の信者である父政次郎に日蓮宗への改宗をせまっていた。前年、賢治が高等農林の研究科を修了して家にもどって以来、父と子のあいだには、はげしい議論がつづいていた。
 国柱会での申しいれは、応接に出た高知尾智耀(たかちおちよう)に「会員なことはわかりましたが何分突然の事ですしこちらでも今は別段人を募集も致しません。」とことわられる(同書簡)。賢治は、本郷区菊坂町に間借りし、東大赤門前の文信社で筆耕の仕事をすることになる。つぎも、関徳弥あての書簡から。
「三日目朝大学前で小さな出版所に入りました。謄写版で大学のノートを出すのです。朝八時から五時半まで座りっ切りの労働です。周囲は着物までのんでしまってどてら一つで主人の食客になっている人やら沢山の苦学生、弁(ベンゴシの事なそうです)になろうとする男やら大抵は立派な過激派ばかり 主人一人が利害打算の帝国主義者です。」(カッコ内原文)
 小さな謄写印刷所での座りきりの仕事、これこそ、先の短歌にあった「東京の底」、「東京の底に澱めり」ということではないのか。
 それでも、賢治は、ずいぶんと元気で、関徳弥にも、「さあここで種を蒔きますぞ。もう今の仕事(出版、校正 著述)からはどんな目にあってもはなれません。(中略)生活ならば月十二円なら何年でもやって見せる。」(カッコ内原文)と書いてやっている。
 が、家出から七か月たった八月、「トシビョウキスグカエレ」の電報をうけとると、賢治は、即座に帰郷する。作品「革トランク」の斉藤平太が持ち帰ったような大きなトランクに、東京で書きためた原稿をつめて。妹のトシが亡くなるのは、翌年11月である。

花巻農業高校に移築された羅須地人協会。

ゴーシュとブドリ
 トシの発病で帰郷した1921(大10)年の12月、賢治は、稗貫郡立稗貫(ひえぬき)農学校の教師となる。農学校教師の職をすて、農民としての生活に入ったのは、1926(大15)年、30歳の春だった。下根子桜(しもねこさくら)の宮沢家の別宅(かつて妹のトシが療養した家)にひとりで住み、農耕生活をはじめた。そこで、羅須地人協会(らすちじんきょうかい)を設立もした。ちかくの村々に無料の肥料相談所をもうけて、稲作指導や肥料設計もした。盛岡高等農林での勉強を土台に、不順な天候とたたかおうとしたのだった。1927(昭2)年には、6月までに2000枚の肥料設計書が書かれた。ところが、翌28年、日照りと稲熱病で稲の出来が悪いのを心配して、走りまわり、体をいためつけた賢治は、とうとう発熱、病にたおれてしまう。病気は、両側肺浸潤だった。
 羅須地人協会は、賢治の考える「農民芸術」(農民すべてが芸術家である)を実現する拠点として構想されたのだろう。「セロ弾きのゴーシュ」のゴーシュは芸術家だが、町はずれの川ばたにある、こわれた水車小屋で暮らし、「午前は小屋のまわりの小さな畑でトマトの枝をきったり甘藍の虫をひろったり」している。ゴーシュは、農民でもあるのだ。
 1930(昭5)年ごろ、賢治は、いったん小康をえて、31年には、肥料用石灰などをつくる東北砕石工場技師をつとめたりしたけれども、31年9月、工場の仕事で上京した際、発熱する。ニコライ堂にほどちかい駿河台の旅館八幡(やわた)館でふせっていたこのとき、客室そなえつけの便箋に書かれ、ハトロン紙の封筒にいれられた、両親あてと兄弟あての二通の遺書は、賢治の死後、彼のトランクのふたのうらのポケットから発見された。賢治が熱にあえいでいたそこも、「東京の底」だ。八幡館で1週間ほどふせったあと、賢治は、寝台車で何とか花巻にかえったものの、とうとう寝ついてしまう。この年の11月3日、手帳に「雨ニモマケズ」が書かれる。

賢治詩碑(羅須地人協会跡)。

 病床で、賢治は、童話や詩に手をいれていたが、「児童文学」第二冊(1932年3月)に掲載の「グスコーブドリの伝記」も、こうして推敲された。ブドリは、飢饉で父母と死別し、妹のネリとは生きわかれになる。彼は、はたらきながら学問をして、クーボー大博士にも出会った。博士にみとめられたブドリは、火山局で仕事をするようになる。そして、物語の最後、ブドリは、イーハトーブを飢饉からまもるために、カルボナード島を爆発させて、気候をかえる。引きかえに、ブドリ自身は、命をおとす。
 寝たり起きたりの毎日なかで、賢治は、どんな思いでこの物語を書き直したのだろうか。「日本岩手県」に重ねて、イーハトーブというまぼろしの土地を見たように、賢治は、農村改革の志半ばにたおれた賢治自身に重ねて、ブドリの物語を夢見たのではないか。ブドリは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(「農民芸術概論綱要」)ということばを実現してしまった主人公だった。「グスコーブドリの伝記」は、「ありうべかりし宮沢賢治の伝記」(中村稔『定本宮沢賢治』前掲)といわれるのだ。

JR釜石線・新花巻駅。釜石線は、賢治の童話や詩のモチーフともなっている。岩手軽便鉄道が国有化したことからはじまっている。

著書紹介
『名作童話を読む 未明・賢治・南吉』春陽堂書店
名作童話をより深く理解するための一書。児童文学作家、未明・賢治・南吉文学の研究者による鼎談。童話のふるさと写真紀行、作家・作品をさらによく知るためのブックガイドを収録しています。
『名作童話小川未明30選』春陽堂書店
一冊で一人の作家の全体像が把握できるシリーズ。「赤いろうそくと人魚」で知られる、哀感溢れる未明の世界。年譜・解説・ゆかりの地への紀行文を掲載、未明の業績を辿ることができる一冊です。
『名作童話宮沢賢治20選』春陽堂書店
初期作品から後期作品まで、名作20選と年譜、ゆかりの地を訪ねた紀行などの資料を収録、賢治の業績を辿ることができる一冊です。
『名作童話新美南吉30選』春陽堂書店
初期作品から晩年の作品まで、名作30作を収録、南吉の身辺と社会の動向を対照した年譜8頁、ゆかりの地を辿る童話紀行を収録しています。南吉の業績を辿ることができる一冊です。
宮沢賢治童話紀行「二重の風景」への旅 【3】に続く
この記事を書いた人
宮川 健郎(みやかわ・たけお)
1955年、東京都生まれ。立教大学文学部日本文学科卒。同大学院修了。現在武蔵野大学文学部教授。一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団 理事長。『宮沢賢治、めまいの練習帳』(久山社)、『現代児童文学の語るもの』(NHKブックス)、『本をとおして子どもとつきあう』(日本標準)、『子どもの本のはるなつあきふゆ』(岩崎書店)ほか著者編著多数。『名作童話 小川未明30選』『名作童話 宮沢賢治20選』『名作童話 新美南吉30選』『名作童話を読む 未明・賢治・南吉』(春陽堂書店)編者。