竹久夢二美術館 学芸員 石川桂子

『中央文学』創刊
 大正6(1917)年4月に春陽堂は新しい文芸雑誌『中央文学』を創刊し、同10(1921)年12月まで57冊を刊行しました。本誌は年少の文芸愛好家を対象に、短編小説を主軸とした編集を行い、文壇の動向や回想なども掲載して人気を集めました。

 また新人発掘を目的として島崎藤村(しまざき・とうそん)による「透谷(とうこく)賞」を募集、さらに誌面に珍しい写真資料も多数掲載した『中央文学』は、現代において大正期の文壇を研究するときに必携の雑誌であることは特筆すべき点です。

表紙絵は夢二
 『中央文学』創刊号の表紙絵【図①】が、春陽堂が竹久夢二と組んだ初めての仕事で、終刊号以外の56冊が夢二によって飾られました。夢二は画家として活躍しはじめてから、多くの雑誌表紙絵を手掛けてきましたが、『中央文学』では他誌とは趣の異なる図案を展開しました。いわゆるセンチメンタルな夢二式美人や少女像は見当たらず、機知に富んだ画風の人物や風景画、さらに円や四角など幾何学模様の中にイラストを配する様式も好み、毎号個性溢れるデザインを繰り広げました【図②】【図③】。

 創刊号の表紙絵は「異国情調と時代錯誤」の画題で発表、翌々月号の読者通信欄では、丹波に住むペンネーム“KTM生”の「何という美しい表紙でしょう。以後もああいう美しい表紙(夢二先生の)を出してください」という投稿をはじめとし、夢二が描く表紙絵は好評でした。新年号(大正9(1920)年1月号)では表紙絵を集めた口絵【図④】も掲載され、読者の眼を楽しませました。

 また創刊の翌月号では夢二が選者を務め、自身が追求した絵画スタイルである「草画(そうが)*」を募集し、誌面で講評する意欲的な特集もありましたが、予想よりも投稿が少なかったのか単発で終了しました。

*「草画」は、夢二自身の言葉によると「文字における和歌や俳句や短歌にあたる、独立の形式と味わいをもった」画を目指し、技法的には小さな白黒(単色)の木版画として制作した後、著書や雑誌の誌面を飾ることが多かった。

①『中央文学』創刊号表紙「異国情調と時代錯誤」
大正6(1917)年

②『中央文学』表紙絵 左より九月号 大正6(1917)年、新年号 大正7(1918)年、三月号 大正8(1919)年

③『中央文学』表紙絵 左より新年号 大正9(1920)年、二月号、十一月号 いずれも大正10(1921)年

④口絵「『中央文学』表紙筆者(竹久夢二氏)小照と八年度一ケ年の精」(『中央文学』新年号掲載)大正9(1920)年

初代編集長・細田源吉と夢二
 文芸雑誌ながら独創的な表紙絵で視覚イメージを重視し、さらに夢二が提唱する「草画」にも誌面を割いたのは、初代編集長・細田源吉(ほそだ・げんきち 1891~1974年)【図⑤】の尽力が大きかったと推察されます。

 細田は小説家として知られていますが、早稲田大学を卒業して大正4(1915)年に春陽堂へ入社しています。『新小説』の編集に携わった後、創刊する『中央文学』の編集長に就任しました。

 夢二が創刊より前に、細田へ送った大正6(1917)年2月17日消印の手紙【図⑥】には「お手紙の趣き承知いたしました。(中略)早速画いてお届けいたします」とあり、内容は細田から表紙絵の依頼を受けた返事のようです。さらに夢二はこの手紙で「私は当分こちらで勉強したいと考えています。それでもお引うけしたものは充分責任をもって間を欠かないことは出来ると存じます」と丁寧に続けています。ところで「こちら」というのは京都を指し、この時期夢二は東京を離れ、最愛の女性・笠井彦乃と京都で暮らしていました。春陽堂の所在地は東京・日本橋で、当時は京都―東京の移動は半日近くかかりましたが、遠距離をものともせず細田が夢二に依頼をし、夢二も身を引き締めて仕事を受ける返事を送りました。

 なぜ夢二が『中央文学』の表紙絵を描くことになったのか……記録が残されていないため個人的な推測になりますが、春陽堂での仕事が未経験だったこと、さらに少年少女雑誌で人気を得ていたため、夢二を起用することによって、読者を獲得しようとするもくろみが感じ取れます。

 ところで細田は十代半ばに「画家になりさえしたら本望」(細田源吉「少年時代の夢」より。『美術と趣味』第2巻第7号 1937年)と強く考えていました。またその頃は夢二が絵筆をとった雑誌や画集が数多く出版され、細田も眼にしていたことは確実で、画家への止まない憧れから美術の造詣も深かったことでしょう。加えて夢二は早稲田実業学校出身で、早稲田つながりという縁も含みつつ様々な事情が絡み合い、細田が雑誌表紙絵の寄稿を夢二に依頼したのではないかと、想像を巡らせています。

 さて、京都に住む夢二は細田と手紙を交わし続け、大正7(1918)年新年号の表紙原画を送る際には「以後は三度刷りで沢山だとおもひます。図柄やコンポジションについては今年通り、白地(ブランク)を多くした方が好いでしょうか。円とか角とかの中へ入れた方が好いか」(書簡より 大正6(1917)年11月24日)と、色遣いや表紙デザインを相談する様子も記され、密なやりとりがうかがえます。

 夢二と細田は信頼関係を築き、『中央文学』の刊行も順調でしたが、大正6(1917)年12月号を最後に細田は編集長を退き、さらに春陽堂も退職して小説家の道に入りました。『中央文学』の表紙絵は継続されましたが、夢二を選者にした絵画系の投稿企画が以後組まれることはなく、細田が退社し編集方針に変化が生じたように思われます。

 その代わり文筆家として、夢二は同誌で詩やエッセイなど発表の場を持つことになりますので、次回は夢二が残した文芸作品に眼を向けて『中央文学』との関わりを紹介させて頂きます。

⑤細田源吉

⑥竹久夢二が細田源吉に送った手紙 大正6(1917)年2月17日消印

(写真と図は、すべて竹久夢二美術館所蔵の作品です)

【参考文献】
雄松堂出版・編「復刻版 中央文学」パンフレット 2006年 
日本近代文学館・編『日本近代文学大事典 第五巻』 1977年
山田泰男・編『川越出身の作家 細田源吉』 1998年

夢二と春陽堂
第3回 雑誌『中央文学』と夢二の仕事Ⅱに続く
この記事を書いた人
石川 桂子(いしかわ・けいこ)
1967年、東京都生まれ。竹久夢二美術館学芸員。編書に『大正ロマン手帖──ノスタルジック&モダンの世界』『竹久夢二♡かわいい手帖──大正ロマンの乙女ワールド』(共に河出書房新社)、『竹久夢二《デザイン》──モダンガールの宝箱』(講談社)、岩波文庫『竹久夢二詩画集』(岩波書店)など。