もう一度読み返したい! 名作童話の世界。
小社刊、宮川健郎編・名作童話シリーズ『新美南吉30選』に収録した、
<新美南吉童話紀行>を5回に分けて転載いたします。
編者は愛知県半田市に赴き、新美南吉の生誕地や作品の舞台を訪ねました。
作家ゆかりの地を知ることで、より深く作品を味わうことができるでしょう。

もうひとつの「ごん狐」
 「ごん狐」は、現在五つの教科書会社から出ている小学校の国語教科書すべてに掲載されていることなどから、広く知られている作品だが、「ごん狐」には、南吉の手控え帳(『スパルタノート』)に「権狐 『赤い鳥に投ず』」として書きとめられた原形「権狐」がある。「権狐」では、「語りの場」が「ごん狐」とはちがったかたちで描かれていた。
「茂助と云うお爺さんが、私達の小さかった時、村にいました。『茂助爺』と私達は呼んでいました。茂助爺は、年とっていて、仕事が出来ないから子守ばかりしていました。若衆倉(わかいしゅぐら)の前の日溜で、私達はよく茂助爺と遊びました。
私はもう茂助爺の顔を覚えていません。唯、茂助爺が、夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助爺は、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助爺からきいた話なんです。」
「権狐」のこの書き出しは、「ごん狐」では、「これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。」となった。「権狐」の本文と「ごん狐」の本文を比較した木村功(たくみ)は、冒頭部の改変について、「『ごん狐』では『語り』という行為の意味が殆ど消去されて、実質的な語り手が『採録者=書き手』へと移行してしまっている」「語られたテクスト(口承=声の文化)から記述されたテクスト(文字の文化)への移行が確認できる」と述べている(木村「新美南吉『権狐』論」1999年、カッコ内原文)。たしかに、「権狐」のはじめに具体的に描き出された「語りの場」や、茂助爺という、もともとの話の語り手は、「ごん狐」では、消去され、潜在化(木村)してしまう。「ごん狐」の最初の一行は、そこに「語りの場」があり、語り手がいたことをうっすらと感じさせる名残にすぎないのかもしれない。木村功は、つぎのようにも書く。
「『権狐』が投稿された『赤い鳥』の編集者鈴木三重吉は、『権狐』に改変を加えて『ごん狐』として『赤い鳥』に発表した。そこでの改変の理由としては、全国規模の出版網に流通し、不特定多数の読者によって物語が広く消費されるためには、『権狐』に横溢している時代性・地域性を捨象して流通性を高める必要があった。また口承として語られていた物語は、書き手によって近代的な物語性をもった文字テクストへと変換されたために、口承の管理者としての実在の語り手の存在を必要としなくなり、そのために『権狐』の冒頭の語り手は『ごん狐』では殆ど削除されることになった。そしてこのことが、近代社会が出版文化の成熟とともに消去していった声の文化の歴史、口承の歴史の残滓(ざんし)を改めて拭い去る行為であったことは、三重吉の『赤い鳥』編集者としての意識とは別に働いていた、出版資本主義の趨勢の帰結するところであったろう。」

新美南吉記念館「ごん狐」のモニュメント。

 木村は、「不特定多数の読者によって物語が広く消費されるためには、『権狐』に横溢している時代性・地域性を捨象して流通性を高める必要があった。」としているが、「ごん狐」への書きかえで流通性が高まったから、戦後の小学校国語教科書に掲載されることにもなったのだろう。木村は、「権狐」─「ごん狐」を比較しながら、時代性、地域性の捨象についても具体的に確認している。「むかし、徳川様が世をお治めになっていられた頃に、」(「権狐」)を、ただ、「むかしは、」(「ごん狐」)とするように特定の時代を示すことばがけずられている。半田の方言など地域性を示す語も排除された。「背戸川」が「村の小川」になり、「鰯のだらやす──。いわしだ──。」が「いわしのやすうりだァい。いきのいいいわしだァい。」となったようにである。
「権狐」の「背戸川」(つまり「裏の川」の意味)は、矢勝川の別名だ。「権狐」の冒頭には、おじいさんが「若衆倉」の前の日だまりで語ったと書かれているが、八幡社には、その「若衆倉」(宝蔵倉)の跡がある。「権狐」は、先ほどのぐるりひとまわり、南吉生家付近と照らし合わせることのできる作品として書かれているのだ。
 ただ、新美南吉は、木村功のいう「出版資本主義の趨勢」を十分に感じていたのではないか。だから、南吉は、鈴木三重吉の書きかえを受け入れた。『校定 新美南吉全集』第三巻の「ごん狐」の解題には、「『赤い鳥』発表作品の場合、鈴木三重吉の補筆があったことはまず間違いない(中略)が、それに対して南吉が不満ないし批判を抱いていたと思われる材料は、今のところ発見されていない。」とある。
 しかし、その一方で、「ごん狐」から10年ほどのちのエッセイ「童話に於ける物語性の喪失」では、書き手にいろいろな条件をおしつける「ジャアナリズムのかかるやり方が害毒を流してしまった。」とし、エッセイと同じころに書かれた「おじいさんのランプ」には、ふたたび「語りの場」を描き出し、「岩滑新田」「大野」「深谷」といった半田や知多半島の地名を書きこんでいる。南吉は、「出版資本主義の趨勢」にあらがうように、「語りの場」を描き、その「語りの場」をささえる地域共同体の存在を示そうとして、実在の地名を書き入れたのではないか。
「久助君の話」の「武豊(たけとよ)」「半田」、「噓」の「岩滑」「新舞子(しんまいこ)」「大野」など、地名が出てくる例はほかにもある。これらは、市販の地図にものっているような地名だけれど、「噓」の「午(うま)ケ池」、「ごんごろ鐘」の「来さん坂」「小松山」「亀池」、「狐」の「鴉根山(からすねやま)」、「百姓の足、坊さんの足」の「前山」のように、さらにローカルな地名が出てくる場合も多い。『校定 新美南吉全集』の語注には、作品「狐」の「本郷」について、「岩滑新田の人は岩滑を『本郷』と呼び、岩滑に行くのを『本郷へ行く』といった。」と記されている。岩滑には、各種の商店がそろっていたという。「地名とはそもそも何であるかというと、要するに二人以上の人の間に共同に使用せらるる符号である。」という柳田国男のことばを思い出したりする(柳田「地名の研究」1932年)。「ごんごろ鐘」や「牛をつないだ椿の木」に出てくる「しんたのむね」は岩滑新田の入口にあたる場所。やはり、全集の語注によれば、「新しい田の棟」の意味で、「むね」は「峰」がなまったという説もあるそうだ。

愛知県半田市、阿久比町、常滑市にまたがる半田池。現在は埋め立てられて見ることができない。

「おじいさんのランプ」の主人公の巳之助が「こちら側の往還(おうかん)」から石をなげて、向こう岸の木につるした50あまりの灯のともったランプをわっていった「半田池」は、実際は周囲2.5キロメートルの大きな用水池で、とても石はとどかない。このことからもわかるように、作品の背後に設定された地域共同体も、それにささえられる「語りの場」も、南吉が自覚的に創作したものにほかならないのだ。
著書紹介
『名作童話を読む 未明・賢治・南吉』春陽堂書店
名作童話をより深く理解するための一書。児童文学作家、未明・賢治・南吉文学の研究者による鼎談。童話のふるさと写真紀行、作家・作品をさらによく知るためのブックガイドを収録しています。
『名作童話小川未明30選』春陽堂書店
一冊で一人の作家の全体像が把握できるシリーズ。「赤いろうそくと人魚」で知られる、哀感溢れる未明の世界。年譜・解説・ゆかりの地への紀行文を掲載、未明の業績を辿ることができる一冊です。
『名作童話宮沢賢治20選』春陽堂書店
初期作品から後期作品まで、名作20選と年譜、ゆかりの地を訪ねた紀行などの資料を収録、賢治の業績を辿ることができる一冊です。
『名作童話新美南吉30選』春陽堂書店
初期作品から晩年の作品まで、名作30作を収録、南吉の身辺と社会の動向を対照した年譜8頁、ゆかりの地を辿る童話紀行を収録しています。南吉の業績を辿ることができる一冊です。
宮沢賢治童話紀行「二重の風景」への旅 【2】に続く
この記事を書いた人
宮川 健郎(みやかわ・たけお)
1955年、東京都生まれ。立教大学文学部日本文学科卒。同大学院修了。現在武蔵野大学文学部教授。一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団 理事長。『宮沢賢治、めまいの練習帳』(久山社)、『現代児童文学の語るもの』(NHKブックス)、『本をとおして子どもとつきあう』(日本標準)、『子どもの本のはるなつあきふゆ』(岩崎書店)ほか著者編著多数。『名作童話 小川未明30選』『名作童話 宮沢賢治20選』『名作童話 新美南吉30選』『名作童話を読む 未明・賢治・南吉』(春陽堂書店)編者。