夜はなんでもしずかにおこなわれる

しずかな夜に、吉田鋼太郎さん主演・演出のシェイクスピアの『アテネのタイモン』の舞台をみる。

『アテネのタイモン』って不思議な話だなあとおもう。

頭からつま先まで善意のかたまりのような人間だったタイモンが、さいごは全人類を呪いながらしんでゆく。

なんのために?

なんのためにひとはひとに何かを無償で与え、そしてその善意を尽くしきったあとに呪いながらしんでゆくんだろう。どうして愛は愛だけでおわらないんだろ。旅行代理店できちんとしたツアーが組まれたみたいに、愛と呪いはパックになる。

善意と呪い。愛と呪い。好きだよと死んじゃえ。

白い服に身をつつみさっそうと舞台を動く吉田鋼太郎さん。

中学生の頃、青春アドベンチャーというラジオドラマを聞いていたら、すごくかっこいい声のひとがいて、いつも最後に、ヨシダコウタロウでした、と名乗って終わった。

それは、ヒトラーがクローンでふたたび生まれていたという話だった。ヨシダさんの声は、知的で、勇気があって、芯があって、でも、どこか危機的で、かっこよかった。その、ヨシダコウタロウでした、という声がききたくて、録音したドラマのそのぶぶんだけをきいたりしていた。

どういうひとなんだろう、とおもった。

十年以上たってから、吉田さんがテレビにひんぱんに出るようになって、ああこのひとが吉田鋼太郎さんなんだ、とおもった。そういう声だけの出会いはほかにもあって、利重剛さんや光石研さんもそうだった。みんな声だけしか知らないひとたちで、あとになってテレビに出るときに、わたしは手紙だけしか知らないひととはじめて会うようなかんじで、どきどきしながら、かれらに会った。

その吉田さんが呪いのことばを叫んでいる。善意や愛は時間がたって呪いに変わった。

電気を消したしずかな夜の部屋できいた、ヨシダコウタロウでした、の響きから、わたしは、そんなにはまだ遠くにきてないのかもしれないと、おもう。ぜんぜんかも。タイモンのような愛にも呪いにもぜんぜん近づいてないのかも。かすってさえないのかも。なんもかんもぜんぜんたりねーよというどこかできいた叫びとささやき。こんなに、読んで、書いて、出会って、走って、別れて、息をついて、倒れて、眠って、起きても。

また夜がくる。

なんもかんもぜんぜんたりないのに。

この記事を書いた人
yagimotoyasufuku
柳本々々(やぎもと・もともと)1982年、新潟県生まれ 川柳作家
安福 望(やすふく・のぞみ)1981年、兵庫県生まれ イラストレーター