くさはらの隅でふるえていることば

南米の作家フリオ・コルタサルに「占拠された家」というほんとうに数ページのとても短い掌編がある。

話は題名の通りで、家がどんどん占拠されていってしまう。家にはふたりの兄妹が住んでいたのだが、どんどん家は占められ、ふたりの住める場所はうしなわれてゆく。

なにものが占拠しているのかはわからない。ふたりもそれを不思議にはおもわない。ただただふたりはあきらめていく。もうあの部屋にも行けなくなっちゃったね。ねえあたしたちに残ってるスペースはもうキッチンだけみたい。

この掌編がすてきなのは、ふたりがあきらめていくところだ。今起こりつつあることをうけいれ・あきらめてゆく。抵抗しない。異議をとなえない。ただ、あきらめてゆく。ふたりで。

漱石の『門』みたいだ。今あることを、今あることとして、あきらめる。門を通過しない。門のところにたたずむ。でもそのときたまたまこの場所にいるあなたに話しかける。またあそこも占拠されちゃったよ。うん、そうね。うん。

「占拠された家」は、家からふたりが完全に閉め出され、鍵がかけられたところで終わったのではなかったか。でもそれはわたしの記憶のなかの話かもしれない。わたしもいろんなことをあきらめよう。

この記事を書いた人
yagimotoyasufuku
柳本々々(やぎもと・もともと)1982年、新潟県生まれ 川柳作家
安福 望(やすふく・のぞみ)1981年、兵庫県生まれ イラストレーター