くさはらの隅でふるえていることば
南米の作家フリオ・コルタサルに「占拠された家」というほんとうに数ページのとても短い掌編がある。
話は題名の通りで、家がどんどん占拠されていってしまう。家にはふたりの兄妹が住んでいたのだが、どんどん家は占められ、ふたりの住める場所はうしなわれてゆく。
なにものが占拠しているのかはわからない。ふたりもそれを不思議にはおもわない。ただただふたりはあきらめていく。もうあの部屋にも行けなくなっちゃったね。ねえあたしたちに残ってるスペースはもうキッチンだけみたい。
この掌編がすてきなのは、ふたりがあきらめていくところだ。今起こりつつあることをうけいれ・あきらめてゆく。抵抗しない。異議をとなえない。ただ、あきらめてゆく。ふたりで。
漱石の『門』みたいだ。今あることを、今あることとして、あきらめる。門を通過しない。門のところにたたずむ。でもそのときたまたまこの場所にいるあなたに話しかける。またあそこも占拠されちゃったよ。うん、そうね。うん。
「占拠された家」は、家からふたりが完全に閉め出され、鍵がかけられたところで終わったのではなかったか。でもそれはわたしの記憶のなかの話かもしれない。わたしもいろんなことをあきらめよう。