等身大の犬の写真をはこぶ
わたしよりかのじょのほうが、ずっと、詩を書いているんじゃないかとおもうことがある。
猫のことだけれど。
わたしは犬との暮らしが長かったので、猫のことをぜんぜんしらなかった。
猫と生活しはじめておどろいたことは、抱かないで! なにするの! わたしはここにいたいの! いつなの! どこゆくの! あれはなんなの! なぜよこたわってるの! と強く意思表示することだった。
犬は、抱かれると、抱かれたまま、おとなしくしている。わらっている。わたしと犬はよく土のうえで、じっとしていた。ぜんぜん未来がみえなかったころで、家族ともどう接していいのかわからなかった。でもわからないなりになんとかしてみようとおもってたとおもう。してみようとはおもっていたが、どこかでそれもうそくさいかんじもあった。わたしはなんにもふっきれなかった。
猫はちがった。
いやなのよ! とかのじょははっきりいう。樋口一葉の小説みたいに。わたしはここにいたい、いやなものはいやなの。
猫とともにくらすことでまなぶことは、そういう、拒絶ってなんだろう、ということなのではないか。そして、拒絶もふくみこみながらも、いきていくすべではないか。むりにだれかとなかよくしようともせず、かといって、かんぜんに離れてしまうのでもない。詩のような、びみょうな距離感をたえずうみながら、たえずといかけながら、いきてゆくこと。
かのじょとわたしの距離感。もうふのなかでころげまわりごろごろのどをならすあなたも、浴室からかきいだく腕をすりぬけ駆け抜けてゆくあなたもおなじだということ。あなたはそうやって、近さと遠さの詩を書きつづけているということ。
あなたはわたしを大きな猫とおもっているのか、この部屋にまだいったことのない場所があるとしっているのか、ついてくることがある。あなたはずっとついてくる。ときどきかげにかくれながら。
あなたは、ときどきこの部屋でいなくなる。呼んでも部屋はしんとしている。風のかすかなおとがする。
あなたは、ときどき、わたしがここにいないかのように息をし、ときどき、わたしの奥をじっとみつめる。あなたにはまだあなたのしらない奥があるのよ、というかんじで。わたしとあなたはイーブンなのよ。その奥にかんしてはね。
わたしは猫から、遠さと近さの詩をまなぶ。
猫は、遠さと近さの詩人なのではないかと、おもう。
あなたはいつも、ふりかえらなかった。