写真家・エッセイスト 坂口綱男


息子の視点からみた安吾の姿
坂口安吾といえば、戦後文学を代表する『白痴』や『堕落論』が有名ですが、信長や家康といった歴史上の人物を主人公とした歴史小説も数多く残しました。『坂口安吾歴史小説コレクション』では、彼が歴史上の人物などをモデルに執筆した作品を、全3巻にまとめました。
コレクションの第1巻『狂人遺書』刊行を記念して、安吾のご子息であり、カメラマンとしても活躍している坂口綱男さんが小社より刊行した『安吾のいる風景』(※絶版)収録のフォトエッセイの一部をご紹介します。息子の視点からみた安吾の姿を、坂口綱男さんの写真とともにお楽しみください。


桜の森の満開の下
私が物心ついて、初めて読んだ安吾の小説が「桜の森の満開の下」だった。その小説が映画になって上映されたのは、私が二十歳の時だった。その映画を見て以来、私は桜の花に対して不思議な感情をもつようになった。
それにしても、映画化された時の桜の森の情景はすごい迫力だった。地面まで完全に桜の花びらで覆われた満開の桜の森、これはもう、本当に怖い世界だった。こんな中に迷いこんだら、確かにどうかなってしまいそうだと思った。桜は、遠くから見るとピンク色にけぶって、霞のようにたなびくような美しさだが、一輪で見ると可憐な花だ。
広大な桜の森の中では、一人の人間の存在なんてかき消されてしまうほどの、深閑とした凄みがある。
そういう桜の森の中を安吾は歩いたことがあるのだろうか? 毎年桜が咲くと、そんなことを思う。そして私も、だれもいない桜の森の満開の下を一人で歩いてみたくなる。
ひょっとすると、安吾が書いているように気が狂うか、幻を見ることができるのではないか、私はひそかな期待をもっている。しかし、安吾の描いたような桜の森の妖艶な魅力の世界は、たとえば吉野の山奥にでも入らなければ、今は見られないのだろう。

今年も見ずに終わってしまった。


さくらの因縁
「安吾のいる風景」の写真を桐生で撮っている。以前にもこのシリーズの写真と文を新潟の新聞で連載したことがある。もう十数年も前のことだが、やはり写真を撮り始めたのが春、桜の季節だった。
父、安吾の短編小説に「桜の森の満開の下」という作品がある。私は初めて読んだ父の作品で、すっかり父を尊敬してしまった。というよりはむしろ、わが父に驚異と畏敬を感じてしまった作品である。以来、父の存在は遠い。
たしか、初めてこの物語を読み終えたときも桜の咲くころだった。エンディングに出て来るような、深閑とした、冷たい空気の張り詰めた、桜の森の満開の下を歩いてみたくて、桜が咲きだすとソワソワする。私と父と桜の因縁は、今もつづく。一年の内、ごく短い桜のシーズンに、こうして安吾がらみの写真を撮っている。
昨日は雨。今日は早朝、父がよく私を連れて散歩したという、ここ桐生の吾妻公園で桜を見る。
早朝で人けのないこの公園は、小説「桜の森の満開の下」のイメージほどではないが、なかなかの桜だった。父も散歩がてらにここまで来て、この風景を見たのだろうか。淡いピンク色の天と地の間で、着物を着て仁王立ちする安吾の姿を想像してみたが、なんかミスマッチなので一人笑いをする。かといって、父が子供を乳母車に乗せ、押して歩く姿もこの風景には似合わねーな、などと取り留めのないことを考えながら公園内をうろつき、こんな写真を撮っていた。


(出典:坂口綱男『安吾のいる風景』春陽堂書店、2006年)


この記事を書いた人
文・写真/坂口綱男(さかぐち・つなお)
1953年8月、群馬県桐生市に坂口安吾の長男として生まれる。写真家/日本写真家協会会員。1978年よりフリーのカメラマンとして広告、雑誌の写真を撮る。同時に写真を主に文筆、講演、パソコンによるデジタルグラフィック・ワーク等の仕事をする。1994年11月、安吾夫人・三千代の没後は、息子という立場から、作家「坂口安吾」についての講演なども行っている。また写真と文で綴った「安吾のいる風景」写真展を各地で開催。主な著書、写真集に、『現代俳人の肖像』(春陽堂書店、1993年)『安吾と三千代と四十の豚児と』(集英社、1999年)、『安吾のいる風景』(春陽堂書店、2006年)などがある。
関連書籍

『安吾のいる風景』(春陽堂書店)無頼派作家・坂口安吾を父に持つ坂口綱男が、父の彷徨の足跡を辿るフォト・エッセイ。坂口安吾とゆかりのある場所を訪ね、そこで父が何を想ったのかを推測し、そのイメージを写真として収録しています。名作「桜の森の満開の下」も収録しています。

坂口安吾歴史小説コレクション第1巻『狂人遺書』(春陽堂書店)
安吾の「本当の凄さ」は歴史小説にあるー。第一巻には、「二流の人」「家康」「狂人遺書」「イノチガケ」など、全11作品を所収。(解説・七北数人)