写真家・エッセイスト 坂口綱男


息子の視点からみた安吾の姿
坂口安吾といえば、戦後文学を代表する『白痴』や『堕落論』が有名ですが、信長や家康といった歴史上の人物を主人公とした歴史小説も数多く残しました。『坂口安吾歴史小説コレクション』では、彼が歴史上の人物などをモデルに執筆した作品を、全3巻にまとめました。
コレクションの第1巻『狂人遺書』刊行を記念して、安吾のご子息であり、カメラマンとしても活躍している坂口綱男さんが小社より刊行した『安吾のいる風景』(※絶版)収録のフォトエッセイの一部をご紹介します。息子の視点からみた安吾の姿を、坂口綱男さんの写真とともにお楽しみください。


浅草気っ風
浅草にあるお好み焼の老舗「染太郎」の店先。
安吾が、この店の熱い鉄板に酔って手をついた話は、子供のころから聞かされていた。事あるごとに、安吾東京ゆかりの店として、銀座のバー「ルパン」と「染太郎」がでてきた。
「染太郎」さんには子供の頃、何度か行った覚えがあるのだが、実際にはあまり記憶にない。
母の話では、名物のおかみさん、ハルさんに安吾のボーヤということでかわいがられ、おみやげに手焼きのおせんべいを沢山いただいたそうである。
最後にうかがったのが、二十一回「安吾忌」のときだと思う。お店にその時の色紙が残っていたので間違いないが、それ以来この写真を撮りに行くまで、二十年以上のご無沙汰になってしまった。
運よく準備中だったので、アポなしで、「こちらにゆかりの坂口安吾の息子ですが、店内の写真を撮らせてください」とお願いしてみたところ、まだこちらが細かい説明など済まさないうちに、「さあどーぞ」と実に気持ちよく承諾してくださった。
さすが浅草の老舗、皆まで聞かず「さあどーぞ」とはいなせだねぇ、なんて感心しながら、あちらこちらと、小一時間ばかり写真を撮らせていただいた。
なんとなく見覚えのある店内で、お店の方に、「安吾さんが手をついた鉄板というのはこれだそうです」なんて説明されて、そこにいる父の姿を思い浮かべてみたりした。


お好み屋の怪
「染太郎」の逸話で、写真右側にある鉄板に父は酔って手をつき、店主ハルさんの手厚い手当と、心配をおかけすることとなった。そして後日、写真右上にある色紙「テッパンに手をつきてヤケドせざりき男もあり」を書く事になる。ここまでは、私も知っていた。
撮影後、現在のご店主でハルさんのご子息、崎本仁彦さんとお会いすることとなる。お話によると、十代から二十代の感受性の高いときに、数多くの文士たちが店に集うのを見て来られたという。
父も、そんなお客の一人だった訳だが、父は戦後の十年間、度々下宿代わりに泊まり込み、「染太郎」さんの二階で原稿を書いていたそうだ。ハルさんや仁彦さんが深夜、原稿用紙を買いに行かされたり、近くに住む作家の元へ伝言を伝えに行ったりしたという。懐かしく話してくださるのだが、今は懐かしくとも当時はさぞ大変であったろうと、心の奥で平にお礼とお詫びをする。
仁彦さんが中学生ぐらいのとき、安吾という人は、毎日酒を飲んでは原稿用紙に向かい、結構羽振りよく暮らす、不思議な人物に見えたらしい。
ある時、学校の作文で困っていた仁彦さんは、父にどうしたらよい文章が書けるか聞いたという。父は何気なくこう答えたそうだ。「読み返さないことさ」と。この言葉に、私は結構感動してしまった。
私のつたない四十数年の経験からしても、写真に関していえば、それはまさしく正論だと思っている。
この一連の文章も、読み返しはしていない。読み返さなければ、自責の念にかられることもなく、明日も同じように文章が書ける。父の言った意味合いとだいぶ違っている気はするが、息子はそうやって生きている。

(出典:坂口綱男『安吾のいる風景』春陽堂書店、2006年)


この記事を書いた人
文・写真/坂口綱男(さかぐち・つなお)
1953年8月、群馬県桐生市に坂口安吾の長男として生まれる。写真家/日本写真家協会会員。1978年よりフリーのカメラマンとして広告、雑誌の写真を撮る。同時に写真を主に文筆、講演、パソコンによるデジタルグラフィック・ワーク等の仕事をする。1994年11月、安吾夫人・三千代の没後は、息子という立場から、作家「坂口安吾」についての講演なども行っている。また写真と文で綴った「安吾のいる風景」写真展を各地で開催。主な著書、写真集に、『現代俳人の肖像』(春陽堂書店、1993年)『安吾と三千代と四十の豚児と』(集英社、1999年)、『安吾のいる風景』(春陽堂書店、2006年)などがある。
関連書籍

『安吾のいる風景』(春陽堂書店)無頼派作家・坂口安吾を父に持つ坂口綱男が、父の彷徨の足跡を辿るフォト・エッセイ。坂口安吾とゆかりのある場所を訪ね、そこで父が何を想ったのかを推測し、そのイメージを写真として収録しています。名作「桜の森の満開の下」も収録しています。

坂口安吾歴史小説コレクション第1巻『狂人遺書』(春陽堂書店)
安吾の「本当の凄さ」は歴史小説にあるー。第一巻には、「二流の人」「家康」「狂人遺書」「イノチガケ」など、全11作品を所収。(解説・七北数人)