古くから受け継がれてきた職人の技と伝統。
今、「ものづくり」の現場に新たな息吹が吹いています。
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未来に向かって歩み続ける春陽堂書店が、
新風を吹き込みながら技を磨く、現代の担い手たちをご紹介します。


世界三大織物の一つ、本場奄美大島紬(ほんばあまみおおしまつむぎ)。
着物が好きな方にとっては憧れの存在とも言える緻密で美しい大島紬ですが、職人の高齢化、後継者不足により、伝統工芸の伝承が大きな課題となっています。
業界全体に不穏な空気の波が押し寄せる中、新しい挑戦を続け、脚光を浴びている一つの呉服店があります。
その名も「銀座もとじ」。
前回に引き続き、銀座もとじの織り手、清田寛子さんにお話を伺いました。
OLから一念発起し、奄美に渡り、織り手に転じた清田さんの選択とは ──。



3 大島紬の織り手への道
  ~絣が見えない、という壁を乗り越えて
── 会社勤めからなぜ織り手になろうと決めたのですか?
やりたくてしょうがなかったとしか言いようがないのですが、一つにはこの機(はた)に対してずっと引っかかっていた思いがあります。機というのは人が座らないと結局オブジェでしかないのです。この機械の仕組み自体はすごく単純明快で、たぶん昔からそんなに変わっていないのです。人が座って手を動かすことによって、初めてこの機能がちゃんと動き出す。そこに惹かれていたのかなと思います。

糸を上下に動かす綜絖(そうこう)という器具には約1300本の糸が通されている。

── OLを辞めて織り手になるには不安があったと思います。それでもやろうと決めた理由は?
「いつかやってみたい」と思っていても、「いつか」という日はやって来ないんですよね、待っていても。自分が動かないとやって来ないし、いつかやりたいと思っていることができなくなる未来もあるんだな、とOL時代に気がついたのです。だから「これを実現するか諦めるか、どうする?」って自分に問うた時に、織り手になりたいという思いを捨てられなかったので、じゃあ奄美に行こうと思いました。
── 清田さんは奄美の養成所で学んだそうですね。
私は横浜生まれの横浜育ちですが、祖母が奄美出身なのです。ハイカラな祖母でしたので、たぶん機織りはしていません。はじめは染色王国の沖縄に行こうと思い、その前に祖母のルーツでもある奄美へ大島紬を見に行きました。
島では養成所のものづくりが、伝統工芸という仰々しいものではなくて島の人々の生活に根付いている。その空気に引き込まれてしまい、ここで仲間にしてほしい、ここで学びたいと思ったのです。
観光で養成所を見学される皆さんは「すごい大変。自分には無理」だとおっしゃるのですが、大変だと感じたことはありません。やっぱり、それは祖母の血かなと思います。ただ習い始めに1回だけ、挫折しそうになったことはありました。
── 挫折しそうになったというのはどんなことですか?
絣(かすり)が見えなかったのです。絣の模様合わせができなかったんですよ、細かすぎて。柄合わせができなかったら大島紬にならないので、「何しにここまで来たんだろう私」って。8時間かけて織り、違うから解いて、今度はどうやり直しても駄目で解いて……。でも10日前後で見えるようになったのです。そこからはもうやることは決まっているので、進むだけでした。
ものづくりって、たぶん何でもそうなんでしょうけれど奥が深くて、努力をして作り上げると、その次の目標というか、進むべきビジョンが見えてくるんですよね。見えたら、たどり着くまで進む。その繰り返しです。

大島紬専用の糸綜絖に1本ずつ手で糸を通すところから織りが始まる。

── 「銀座もとじ」とはどのような出会いでしたか?
「僕のお店で織ってみる?」と最初に社長から声をかけられた時、私、「若い職人さん、頑張りなさいよ」という意味のリップサービスだと思ったのです。でも先輩方の、「あなた、そのチャンスを掴まなかったら駄目よ!」という普段決して駄目だと言わない優しい人たちのその一言で決めました。
入社前に大島紬専門店の5周年記念パーティーに招待していただいたのですが、誰も知り合いがいませんでした。でも、ふっと気が付いたら、いつも隣で機を織っているあねぇ(島の先輩のこと)が織ったのと同じ柄をお召しになってる方がいる。反物がお着物になって、お客さまも着物も一緒に輝いている。身にまとって、楽しんで、その方のものになって、その方の人生になっているのが着姿から伝わってくるのです。着物は文化なんだと気づきました。本当に素敵で、「これを島に持って帰らなきゃ、先輩たちに伝えなきゃ」って、気がつくと全然知らない人に「お写真撮らせていただけますか?」と話しかけていました。
銀座に来て感じるのは、お着物って、生活や体に、その人の人生に寄り添うものなのですね。島にいた時は目の前の10センチが自分の世界だったので、わからなかったのですが。

4 清田さんが描く大島紬の未来
  ~手仕事の素晴らしさを、島の若い人たちにも知ってもらえる情報発信を

緯糸(よこいと)を通すために使う“杼(ひ)”とよばれる道具は、織り手にとって一番大切な道具。

── 銀座のど真ん中で実際に機を織るというのは、どういう気持ちですか?
織っているといろんな方がご覧になってくださいます。
「私の持っている大島ってこういうふうに作られたんだ」とお客さまが見に来られたり、通りがかりの方が「何ですか、これ?」っていらっしゃったり……。
実際に見えているのは私の手の動きなのですが、そこには、すでにさまざまな職人さんの手仕事と思いが込められています。ですから一手一手大切に織っていかなければと思っています。

緻密な絣を合わせる為に、泥染の地糸と絣糸を別々にかけるのが大島紬の機(はた)の特徴。

── ここまでの工程を担(にな)ってきた奄美の皆さんを代表して、という意識ですね。
そうです。島の人たちは黙々と、顔も名前も知られぬ状況であっても、これだけすごい手仕事を妥協することなく続けてきているのだ、と。
── ちょっと重いかもしれないですけれど、何かミッションを背負う感じなのでしょうか。
でも、それをこの機にかかっている反物に巡り合ってくださったお客さまからエネルギーをいただくのです。ここにお客さまが「どう?」って、ふらっと覗いてくださる。日々、糸の調子や温度の変化、自分の体調のこととかいろいろあります。でも、お客さまが見にきてくださると、「この方のために頑張ろう」とそれが原動力になるのです。つい先日に仕上げた大島紬が、いろいろ事情があって、人生であんなに頑張ったことがないぐらい仕上げるために頑張ったのですけれど、それはやっぱり人のためだからできたのですね。自分のためだけだったら、あそこまで頑張ることができなかった。本当にびっくりしました。「私、こんな頑張れるんだ」って(笑)。
お客さまが月に2回ぐらい来てくださり、できあがるのを楽しみにしている。それに私が元気づけられて島から届いた大切な絣糸・泥染糸を布という形にし、お客さまにお届けする。その反物を着物に仕立て、お客様が素敵な着姿を見せに来てくださる。それによって、また私のものづくりへのモチベーションが上がります。

── 最後に、これから清田さんがチャレンジしたいことや、実現したいこと、思い描いているビジョンなどを教えてください。
実はこの大島紬専門店ができたきっかけは、2010年に奄美大島を襲った豪雨災害なのです。その際、泥田は土砂で埋まり、機や道具、家も工房も大打撃を受けました。壊れたものを直して、また一からやり直すのは、エネルギーのいることなので、これを機に辞める職人さんも出てきてしまいました。そんな状況を見て、社長が「このままでは大島紬がダメになる」と危機感を持ち、産地を盛り上げるため、そして一人でも多くの方に奄美大島を知っていただくためにオープンさせたのが、この大島紬専門店なのです。
今この場所で奄美の文化を発信し、産地とお客さまとを結ぶ役割をさせていただいています。
奄美に元気になってもらうために、ここで織りの様子を見てもらうことによって、一人でも多くの人に大島紬に興味を持っていただき、自分も大島紬をやってみようと思えるようなお手伝いができればと思っています。

この記事を書いた人
     春陽堂書店編集部
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