線になれなかった線
歌人の加藤治郎さんが、名古屋の短歌のイベントで歴史的な短歌の新しい運動(ニューウェーブ)について話していたときに、ひとりの人間のなかのばらばらの意識、ということについて話していて、そうか、そもそも短歌というのがばらばらの複数のじぶんの意識をひとつの線にすることなのかなあ、ともおもう。
そもそもなんでひとは短いことばでなにかを伝えようとするんだろうとかんがえることがある。別にだれからもそうしろと言われてもいないのに。
それは、ばらばらになった意識をひとまとめにすることによって、ふだん長く話しては伝えられないなにかをあなたに預けようとするからではないか。短いからあるいは失敗するばあいもあるかもしれない。でも、なんだか、そのことに賭けてみる。今はそうするしかなかったから。
短い詩というのはそういうものなのではないか。
たとえばもう電車はでてしまう。とめようがない。長くはなせない。うごきはじめている。帰ってほしくない。もっと会いたい。でもじぶんなんかが。電車とめたらとりおさえられる。ほんとに愛してるのかわからない。家に帰ったらお風呂はいろうかな。おなかへった。おなかかゆい。愛してる。そういうばらばらの意識をひとまとめで、伝える。電車がでるまえに。それが短歌なのではないか。
ときどき、大失敗することもあるかもしれない。でもそれもふくめて。電車がでそうになるぎりぎりまえにあなたにとっても大事なことを歌にしてつたえられることは、たのしいんだとおもう。