竹久夢二美術館 学芸員 石川桂子

大正時代の日本橋
 竹久夢二が表紙絵を手掛けた雑誌『中央文学』の奥付に注目すると、発行所である春陽堂の住所は「東京市日本橋区通四丁目五番地」【図①】と記されています。創業時の明治11(1878)年は神田泉町で営業していましたが、同20(1887)年頃から春陽堂はこの地に移り、日本橋で出版業を行いました。
 さて、日本橋といえば、慶長8(1603)年に、幕府が江戸を中心として諸街道を定め、その基点となった場所でした。日本橋は江戸だけではなく日本全国の中心になり、それを象徴するように「お江戸日本橋」【図②】という語が繁華の代名詞となった程でした。大正7(1918)年に刊行された『最新東京名勝案内』の「日本橋区」の説明には「各種の大問屋大商店銀行会社集合し其繁盛は昔より盛(さかん)なり。」と記されたとおり、町は近代化を遂げました。

①(左)『中央文学』十月号(1918年)
(右)奥付に記された春陽堂の住所「東京市日本橋区通四丁目五番地」

②セノオ楽譜「お江戸日本橋」(第7版) 昭2(1927)年
「お江戸日本橋」は東海道五十三次の道中を歌詞に歌い込んだ日本の民謡。
夢二が楽譜表紙絵を手掛けた。※初版は大正5(1916)年刊行

夢二と日本橋
 商業の発展によって街の様相が著しく変化した日本橋ですが、関東大震災前までは魚河岸も存在し、土手蔵の白壁が江戸の名残を見せていました。この街の雰囲気をこよなく愛した夢二は、気に入った風景を描きつつ、日本橋から自身の仕事を発信する機会もありました。今回は夢二とゆかりの日本橋について紹介していきます。
Ⅰ.港屋絵草紙店
 大正3(1914)年、夢二は東京・日本橋に「港屋絵草紙店(みなとやえぞうしてん)」を日本橋区呉服町2番地(現、中央区八重洲一丁目11番地)に開店【図③】し、自らデザインした品々を販売しました。小さな店舗ながら夢二が手掛けた一枚ものの木版画をはじめ、千代紙【図④】・絵封筒、浴衣・帯・半襟などを所狭しと並べ、これらの商品は売出しの案内で「可愛い」という言葉を用いて宣伝されました。少女や女性が好み、趣味の良い「可愛い」小物類を提案した夢二は、近代の日本において、いち早く“かわいい”に注目した画家でした。
 港屋絵草紙店から発信した“かわいい”商品は、大正という新しい時代の波に乗り、若い女性の心を捉えて大変評判となりましたが、夢二の恋愛事情等より、わずか2年で店を閉じました。
現在、みずほ信託銀行本店の敷地の一角に、港屋絵草紙店の碑がひっそりと建っています。

③港屋絵草紙店の前で夢二 大正3(1914)年  ④ 千代紙「きのこ」(版元:港屋)大正3(1914)年

Ⅱ.榛原
 榛原(はいばら)の創業は文化3(1806)年。日本橋に小間紙屋を開業し、江戸の庶民に雁皮紙(がんぴし)*1を最初に売り出しました。日本国内の良質な雁皮植物だけが出せる滑らかな紙肌・光沢・強靭さを特徴とした高級和紙である雁皮紙は、粋を好む江戸の芸者や町人の間で大変な評判になりました。
 夢二は、榛原から依頼を受け、団扇、絵封筒、便箋【図⑤】などの商品制作を行うのと同時に、高品質な紙を榛原から取り寄せて、自身の作品制作で使用することもありました。
 
*1雁皮紙…ガンピの繊維で漉いた和紙。古来「紙の王」とよばれて珍重される。湿度や虫害に強く、光沢があり美しい。

⑤ (左)抒情画箋5(版元:榛原)表紙と(右)便箋面 大正後期

Ⅲ.三越百貨店
 前身は延宝元(1673)年創業の越後屋呉服店で、明治37(1904)年には「デパートメントストア宣言」を行い、日本の初の百貨店「三越呉服店」が誕生しました。大正3(1914)年には5階建て近代建築のデパートが日本橋の現在の地に完成し、東京の新名所として話題をさらいました。明治44(1911)年完成の帝国劇場と併せ、大正時代を代表するキャッチフレーズ「今日は帝劇、明日は三越」も生まれました。
 さて、夢二は若い頃、様々な場所に出掛けてスケッチをしていましたが、三越は夢二にとって格好のスケッチ場所だったようで、店内で見かけた女性を描くこともありました【図⑥】。また、大正8 (1919) 年6月15日~21日まで、三越において「女と子供によする展覧会」を開催し、自作を約100点展示したこともありました。さらに三越から依頼を受け、文芸と広報を兼ねた雑誌『三越』の表紙や口絵【図⑦】も手掛け、モダンな百貨店のイメージをイラストレーションで表現しました。

⑥ 三越にて(『婦人画報』1911年7月号より)

⑦ 雑誌『三越』に掲載された口絵「涼しき装い」 大正14(1925)年

Ⅳ.一石橋
 日本橋川に架かる一石橋(いちこくばし・いっこくばし)は、港屋絵草紙店から100メートル程の距離で、この場所を描いた「ICHIKOKUBASI」【図⑧】が残されています。これは大正8(1919)年刊行の自著『山へよする』に掲載されました。

⑧ICHIKOKUBASI(一石橋) 大正8(1919)年

 画面には橋にたたずむ後姿の男性と、その視線のむこうに河岸蔵と高くそびえ立つ三越が描かれています。男性の左側に建つ碑に注目すると「たつぬる方」「満(ま)よひ子の志(し)るべ」と書かれています。現在もこのしるべ石は橋のたもとにありますが、江戸時代の日本橋から一石橋界隈は盛り場だったため、迷子や尋ね人が多く、安政4(1857)年に、この迷子探しの告知石碑が建立されました。
 夢二は『山へよする』で「昼日中一石橋にたちつくし何を眺むる男なるらむ」という歌も残しました。歌に詠みあげた情景を絵筆にとったようですが、夢二はこの時「山」と呼び表した恋人・笠井彦乃(彼女は日本橋の紙問屋の娘でした)のことを、心に思い浮かべていたのかもしれません。
夢二と春陽堂 第6回へ続く
この記事を書いた人
石川 桂子(いしかわ・けいこ)
1967年、東京都生まれ。竹久夢二美術館学芸員。編書に『大正ロマン手帖──ノスタルジック&モダンの世界』『竹久夢二♡かわいい手帖──大正ロマンの乙女ワールド』(共に河出書房新社)、『竹久夢二《デザイン》──モダンガールの宝箱』(講談社)、岩波文庫『竹久夢二詩画集』(岩波書店)など。