第二回 春陽堂とラジオドラマ研究会

NHK出版 編集局チーフ・エディター 本間理絵


ラジオと春陽堂の知られざる関係とは──
1925年3月22日、日本で初めてのラジオが放送されました。
報道や語学教育などを目的とする傍ら、視聴者を楽しませるための娯楽として作られたのが、ラジオドラマです。そのラジオドラマに、春陽堂書店がどのような関わりをもっていたのか。全4回に分けて、ラジオドラマと春陽堂の知られざる関係を紹介していきます。


ラジオドラマ研究会
日本で初めてラジオドラマが放送された大正14(1925)年当時、番組制作を担っていたのは、放送局内に結成された「ラジオドラマ研究会」の面々であった。
その主要メンバーは、長田幹彦、小山内薫、久保田万太郎、久米正雄、長田の兄の長田秀雄、吉井勇である。作家や劇作家であった彼らは、本業の傍らにドラマ台本を書き、番組を演出し、制作を統括した。みな好奇心があって新しいもの好きだったので、ラジオという新しいメディアに惹かれたのだろう。また彼らは、大半の自著や全集を春陽堂から出版していた。なかでも久保田は、同社の文芸誌『新小説』の編集者だった本多直次郎[本多嘯月(しょうげつ)]に見いだされてプロデビューしたという経緯もあり、特に深い関わりがあった。

図1 久保田万太郎(Wikimedia Commonsより)

本多は夏目漱石に『草枕』を書かせた人物として知られ、明治44年に『新小説』の編集主任となり同誌の黄金時代を支えた他、「夏目先生と春陽堂と新小説その他」(『漱石追想』岩波文庫、平成28年)や『日露交戦録旅順口陥落史』(明治38年)、『漫遊必携紀行文枠』(明治43~44年、ともに春陽堂書店)などの自著もある。
放送局とのコネクションを生かしてのことだろう、春陽堂の刊行した小説は、大正14年から昭和13(1938)年までの15年間に、19作品(放送回数23回)もラジオドラマ化されている。この期間の原作供給数は、大日本雄弁会講談社や新潮社などの新興出版社を抑えて出版社の中で最多である。
なぜ当時、同社の小説が数多くラジオドラマ化されたのだろうか。その理由のひとつとして、その頃同社を切り盛りしていた四代目社長の和田利彦氏(創業者の養女静子の女婿)がラジオとの連携に意欲的だったことが挙げられる。利彦社長は、昭和初頭の円本ブーム時に『明治大正文学全集』(全60巻、昭和2~7年)を発売して大ヒットさせ、昭和7(1932)年に「春陽堂書店文庫」と「日本小説文庫」を創刊、文庫にも進出した人物である。攻めの経営をモットーとした彼だからこそ、新しいメディアであるラジオとの連携に商機を読み取ったのであろう。
もうひとつの理由は、同社が明治・大正期に博文館と並ぶ二大文芸出版社であったため、必然的に多くの作品が原作として採用されやすかったからだ。

図2 都市美協会が昭和10年に刊行した『建築の東京』に掲載された春陽堂ビル(中央区立京橋図書館提供)

春陽堂の時代
春陽堂書店は、絵草紙や書籍の行商から身を興した和田篤太郎が明治11(1878)年に創業した出版社である。イソップ『伊曾保物語』やヴェルヌ『三十五日間空中旅行』などの翻訳出版でヒットを飛ばした後に文芸出版に進出した。
篤太郎は文壇の大御所・尾崎紅葉と強く結びついて、明治22(1889)年に文芸誌『新小説』を創刊。夏目漱石、島崎藤村、幸田露伴、森鷗外ら明治の文豪たちを悉く取り込んで急成長した。その頃の隆盛ぶりを、永井荷風は「其の頃(=明治34年頃)、文学小説の出版といへば春陽堂一手の専門にて作家は紅葉露伴の門下たるにあらずんば殆ど其の述作を公にするの道なかりし」と書いている(『書かでもの記』)。当時の文芸出版は春陽堂一社が独占しており、尾崎紅葉か幸田露伴の弟子でなければ、商業作家になれなかったというのだ。

図3 春陽堂の刊行した尾崎紅葉『金色夜叉』(復刻版)

島崎藤村の三男も、父から聞いた話として、「日本橋に在った春陽堂の店なぞも、旧い暖簾の奥深く、番頭さんや小僧さんが前だれをかけてきちんと坐り、奥の間に通されるのは流行作者だけだったと云ふ。泉鏡花氏なぞは自由に奥へ通る作家の一人だったと云ふ。父は詩の草稿をたづさへてこの店先へ腰を降す度に、暖簾の奥に秘された作者と出版社との封建的つながりを嘆じ」ていたと述べている(『父藤村と私たち』)。泉鏡花は同社の奥座敷に通してもらえたのに、自分は玄関先どまりの扱いをうけた、とあの藤村が悔しがっているのだ。同社がいかに権勢を誇っていたかを物語るエピソードである。
久保田万太郎と日本放送協会
第三の理由としては、久保田万太郎との縁があげられる。「ラジオドラマ研究会」の主要メンバーだった久保田は、昭和6年に日本放送協会の文芸課課長に昇任、演劇界の人脈を生かして第一線の俳優を起用するなど、番組プロデューサーとして辣腕をふるっていた。
前述の通り、久保田は春陽堂からプロデビューした作家である。今や放送局の文芸課長となった彼から、ラジオドラマへの原作提供を要請されて、同社が断るはずがない。同社と放送局との連携が、彼を通じてスムーズに運んだことは想像に難くないだろう。
また春陽堂は、大正14(1925)年12月に『ラヂオドラマ叢書』(全五巻。定価各40銭)なるものも刊行している。各巻の内容は以下の通りである。

第一巻 長田幹彦著『悲しき遍路』(「悲しき遍路」「復讐」「霧」所収)
第二巻 久保田万太郎著『暮れがた』(「暮れがた」「月」「夜」所収)
第三巻 長田秀雄著『盲の高利貸』(「盲の高利貸」「夫婦」「先夫の子」所収)
第四巻 小山内薫著『炭坑の中』(「炭坑の中」「夫」所収)
第五巻 吉井勇著『最後の接吻』(「最後の接吻」「劇場入り口の半時間」「鸚の死骸」所収)

図4 春陽堂刊行『ラヂオドラマ叢書』第1~4巻と、巻末に掲載された広告。(NHK放送博物館所蔵)


黎明期の14本のラジオドラマの台本を収録した同シリーズの著者は、全員、ラジオドラマ研究会の主要メンバーたちである。ラジオドラマの本放送開始が大正14(1925)年7月、その五か月後には全巻が出版されているのだから、叢書化の話は放送開始と同時に進んでいたと考えられよう。
小説のラジオドラマ化と、ラジオドラマ台本の叢書化。春陽堂書店が放送局と組んで仕掛けた二つの試みは、今でいうメディアミックス以外の何物でもない。折しもこの頃、看板雑誌『新小説』は売上が低迷していた。昭和2年1月に『黒潮』に改題され、その2か月後に休刊に追い込まれてしまう。そのような中で、新たな突破口を求めて、利彦社長はラジオドラマとの連携に挑んだのではないだろうか。

第三回へつづく)
<参考文献>
小川菊松『出版興亡五十年』(誠文堂新光社、1992年)
戸板康二『久保田万太郎』(文藝春秋、1983年)
西澤實『ラジオドラマの黄金時代』(河出書房新社、2002年)
本間理絵「近代メディアミックスの形成過程~春陽堂書店とラヂオドラマ研究会との連携を中心に」『出版研究48』(出版ニュース社、2018年)
山﨑安雄『春陽堂書店物語―春陽堂書店をめぐる明治文壇の作家たち』(春陽堂書店、1969年)

この記事を書いた人
文/本間理絵(ほんま・りえ)
1960年、神奈川県生まれ。出版社勤務。著筆に「近代メディアミックスの形成過程~春陽堂書店とラヂオドラマ研究会との連携を中心に」(『出版研究』48、出版ニュース社)、「ラジオテキスト『国民学校放送』にみる戦時の学校放送の近代性」(同46)、「日中戦争時のラジオテキスト『支那語講座』に関する一考察」(同42)などがある。