第三回 ドラマ化された漱石作品

NHK出版 編集局チーフ・エディター 本間理絵


ラジオと春陽堂の知られざる関係とは──
1925年3月22日、日本で初めてのラジオが放送されました。
報道や語学教育などを目的とする傍ら、視聴者を楽しませるための娯楽として作られたのが、ラジオドラマです。そのラジオドラマに、春陽堂書店がどのような関わりをもっていたのか。全4回に分けて、ラジオドラマと春陽堂の知られざる関係を紹介していきます。


ラジオのなかの夏目漱石
戦前のラジオドラマでは、春陽堂刊の小説が数多くドラマ化されたが、なかでも断トツで多かったのが、夏目漱石(なつめ・そうせき)の小説である。「三四郎」(昭和11[1936]年8月31日から3日間放送)や「彼岸過迄」(昭和15[1940]年3月19、20日放送)、「草枕」(昭和16[1941]年3月27日他放送)、「二百十日」(太平洋戦争末期、放送日不明)など、漱石原作のドラマが続々と放送された。あの「智に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」という冒頭部分で有名な『草枕』は、好評だったのか、戦前に3回もドラマ化されている。

図1 夏目漱石(Wikimedia Commonsより)

なぜ、夏目漱石の小説が数多くラジオドラマ化されたのか。
ひとつには、知的でユーモアがあり、かつ読みやすい彼の小説が当時の人々に広く愛読されていたからであろう。社会風刺が効いた青春ドラマ『坊ちゃん』や『三四郎』、男女の新しい愛と結婚のあり方を追求した『それから』や『門』、人間のエゴイズムの深淵を描いた『こころ』などが、今日にいたるまで多くの読者に親しまれてきた。
そしてもうひとつ、あまり知られていないが、当時、日本放送協会のラジオドラマの制作現場に、小林勝(こばやし・まさる)という漱石作品の脚色を得意とする台本作家がいたことも、その理由に挙げられよう。実は、冒頭にあげた漱石ドラマは、すべて小林勝が脚色と台本執筆を手がけている。戦前に放送された小林のラジオ台本は計50本あるが、そのうち、16本が漱石作品のドラマ化である。彼は戦後も「吾輩は猫である」(昭和25[1950]年1月4日放送)や「こころ」(昭和26[1951]年7月1日他、全5回放送)などの漱石作品を担当した。これらのドラマ台本は、『戦時中の話しことば ラジオ台本から』(遠藤織枝ほか、ひつじ書房、2004年)の付録のCDに収められているので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。
脚本家・小林勝
小林勝(明治36[1903]年~昭和57[1982]年)という脚本家は、現代人にはあまりなじみがないが、戦前のドラマ界では、「ラヂオ小説」という新分野を開拓した人として知られていた。昭和6(1931)年に日本放送協会に文芸課嘱託となって、ラジオドラマの台本を書き始めたが、前職は映画のシナリオライターで、PCL(写真化学研究所、東宝の前身)という映画会社の脚本部に勤めていた。その頃から漱石作品を数多く映画化していたというから、よっぽど漱石が好きだったのだろう。彼が開拓した「ラヂオ小説」とは、名作をそのまま朗読するのではなく、会話形式にしてドラマのように進行することで、聞き手に分かりやすくしたラジオドラマシリーズである。通常のドラマよりも地の文が長い。
たとえば昭和11(1936)年に放送された「三四郎」では、

「これは明治四十年頃の物語であります。その頃、大学は九月に新学期が始まりました。丁度熊本の高等学校を卒業した許りの小川三四郎は、暑い八月の末、東京帝大の英文科へ入学するため、上京しました……」

という長い解説から、ラジオドラマが始まる。朗読には、放送局のアナウンサーが起用されていた。初めて本格的に脚色されていたので、「ラヂオ小説」は「ラジオ文芸の最高をゆくもの」という高い評価を受けていたようだ。

図2 ラジオドラマ「三四郎」の台本。「小林勝 脚本」と記載がある(文教大学越谷図書館蔵)

春陽堂と夏目漱石
ところで、夏目漱石と春陽堂の関係は、意外に深いということをご存じだろうか。夏目漱石は、明治39(1906)年、春陽堂の刊行していた雑誌『新小説』に『草枕』を掲載したのをきっかけに、同41(1908)年、同作品と『坊ちゃん』、『二百十日』とあわせて『鶉籠』(うずらかご)と題した本を同社から刊行している。その頃の『新小説』は、幸田露伴(こうだ・ろはん)ら辣腕編集長の下で意欲的に新人を発掘し、泉鏡花(いずみ・きょうか)の『高野聖』や国木田独歩(くにきだ・どっぽ)の『帰去来』などの名作を数多く輩出して、隆盛を極めていた。

図3 夏目漱石『鶉籠』(復刻版)

その後も漱石は、春陽堂と組んで、『虞美人草』(明治41[1908]年)、『三四郎』『それから』(同42[1909]年)、『夢十夜』(同43[1910]年)、『門』(同44[1911]年)、『彼岸過迄』(同45[1912]年)のような大作を、ことごとく同社から出版している。およそ11年の短い作家生活のうち、最も脂の乗った頃の漱石作品を独占的に刊行できたことが、春陽堂の権威の一つとなっていたのである。
同社の豪華な装丁も、夏目漱石ら当時の一流作家たちを大いに魅きつけた。まだ平版印刷の技術が幼稚であった時代に、春陽堂は、色彩豊かな手彫りや手刷りの木版画の表紙や、高精度で手の込んだ木版画の口絵など、贅を尽くした装丁の本を次々と世に出した。鈴木華邨(すずき・かそん)、鏑木清方(かぶらぎ・きよたか)、川村清雄(かわむら・きよお)、橋口五葉(はしぐち・ごよう)、渡辺省亭(わたなべ・しょうてい)などの一流画家が挿画を担当していた。

図4 橋口五葉(Wikimedia Commonsより)

これが作家たちの間で話題となり、人気を呼んだのだ。たとえば、明治40(1907)年に『蒲団』を『新小説』に発表した田山花袋(たやま・かたい)は、こんなことを述べている。

「S書店(=春陽堂書店)といへば、紅葉以来の文壇の権威で、其処で発行する書籍の装丁の美しいこと、口絵の綺麗なこと、紙の好いことなどは、読者社会に評判であった」(『東京の三十年』博文館、大正6[1917]年)

と同社の装丁の美しさを称えているのだ。今も昔も、表紙は「本の顔」である。できるだけ読者を惹きつける、美しい装丁を作って欲しいということは、漱石をはじめとした当時の文士たちの切実な願いだったのであろう。

図5 夏目漱石『四編』(復刻版)。春陽堂書店が得意とした色彩豊かな木版画の装丁の豪華な本作りは、当時の作家たちの間で人気だった。

第四回につづく)


<参考文献>
遠藤織枝ほか『戦時中の話しことば ラジオ台本から』(ひつじ書房、2004年)
山﨑安雄『春陽堂書店物語―春陽堂書店をめぐる明治文壇の作家たち』(春陽堂書店、1969年)

この記事を書いた人
文/本間理絵(ほんま・りえ)
1960年、神奈川県生まれ。出版社勤務。著筆に「近代メディアミックスの形成過程~春陽堂書店とラヂオドラマ研究会との連携を中心に」(『出版研究』48、出版ニュース社)、「ラジオテキスト『国民学校放送』にみる戦時の学校放送の近代性」(同46)、「日中戦争時のラジオテキスト『支那語講座』に関する一考察」(同42)などがある。