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明治初期から多様な印刷物の普及を実現し、文化や社会の発展に貢献してきた活版印刷。しかし1980年前後に写真植字やオフセット印刷が登場すると、活版印刷所や活字鋳造所は急速に姿を消していきました。ところが近年、若いデザイナーの間で活版印刷が注目を集めています。
活版印刷の魅力はどこにあるのでしょうか。また技術の継承が難しくなっている中、活版印刷が復活する可能性はあるのでしょうか。
今回は、新宿で現在も活字の鋳造を続けている佐々木活字店の4代目、佐々木勝之さんに、活字鋳造の現状と活版印刷の未来についてお話を伺いました。


1.印刷技法の主流からオフセット印刷の時代へ。
   ~佐々木活字店は創業からどのように歩んできたか
── まず、活版印刷とはどんな印刷技法か教えてください。
 活版印刷は凸版印刷の一種で、昭和50(1975)年代ぐらいまで主流だった印刷技法です。凸版印刷は、鉛活字や亜鉛版、樹脂板を利用して版にインクを載せて圧力をかけ、紙に直接印刷します。そこがオフセットやオンデマンド印刷と大きく違うところです。とくに活字を使って組んだ版を使うのが活版印刷です。そのほかの凸版印刷とは区別されています。

活字の原料は鉛を主成分とするスズとアンチモニの合金。これを300度程度で溶かして鋳造する。

── 大正時代から活字鋳造の事業を始めてから100年経つそうですが、第二次世界大戦を挟み、どのようにして仕事を続けてこられたのでしょうか。
 佐々木活字店は、大正6(1917)年に曽祖父の佐々木巳之八(ささき・みのはち)が創業しました。大日本印刷の鋳造部で活字の鋳造をしていた職人でしたが、独立して事業を始めたのです。
 戦前は活字の鋳造販売業者として、活字を印刷所に卸す仕事をしていました。
 戦時中は活字の原料となる鉛が不足していたため、タイプライター用の活字を鋳造していたそうです。戦時中はむしろ会社の景気は良かったと聞いています。
 昭和22(1947)年に活字鋳造の営業を再開しましたが、戦後は活字を箱に拾う文選(ぶんせん)まで引き受けるようになりました。そのうちに写真植字、オフセット印刷という新しい技法が出てきて、活字の販売だけでは難しくなり、いろいろやってみようと、端物(はもの)という名刺やはがきなどの印刷も行うようになり、現在に至っています。
 会社としては100年間を通して、ずっと厳しい経営をしてきました。

── オフセット印刷への転換や、ほかの業種へ転業をしなかったのはなぜですか?
 私見ですが、活版印刷から写植、それからオフセット印刷へと移っていく流れの中で、特にオフセット印刷が1980年前後に登場した時に、切り替えられる企業と切り替えられない企業があったのだと思います。
 オフセット印刷を始めるには、設備をすべて新しくする資金がないとできません。当時、活版印刷という技術自体にこだわっていた職人さんはそんなにいなかったと思います。というのは、活版印刷が主流だったころは、当然「古き良き」印刷技術ではなく、当たり前の技術だったからです。きれいに早くできる技術が登場し、みんな早くそちらに切り替えたいけれどできなくて、うちも活字販売だけでは厳しいという状況の中、印刷業もやっていかなくては、と印刷も始めたのです。それに加えて、うちは印刷屋ではなく活字鋳造業なので、活字自体を処分することに抵抗がありました。そのため、なかなか切り替えが難しく時期を逃してきたのです。

戦災により全焼したが昭和22年に営業を再開。昭和27年に現在の社名に改称した。

── 新しい技法が主流になってからの事業はどのような状況だったのでしょうか。
 現社長である父は、ちょうどオフセットに切り替わる時代に跡を継ぎました。商売というのはお客さんがいるのでなかなかすぐにやめられません。もうやめてもいいかな、という時期はあったそうですが、生活していかなくてはならないので、平成初期は相当苦労して続けていたと思います。
 今でこそ、「活版はオフセットでは表現できない印刷の良さがあります」と違いを売りにしていますが、そのころは相当な手間がかかるのに、オフセットと同じくらいのコストで受注するなど、難しいやり方をせざるを得ませんでした。
 平成に入ってからは、鋳造だけでは事業の継続はほぼできなくなってきています。職人さんも最盛期には20人以上いましたが、現在は3~4人の規模まで縮小しています。そのころは印刷所の下請けや、名刺や封筒の印刷で乗り越えてきました。

できあがった様々な書体やサイズの活字はケースに詰められ、斜めに棚に立てかけられて保管される。

2.創業100年。職人とともに歩んだ佐々木活字店。
   ~家業を継ぎ、会社の歴史を振り返るイベントを開催

── 厳しい事業環境にもかかわらず、跡を継ぐ決心をされたのはなぜですか?
 家業を始めてから7年ぐらいになります。それまでは建築業で施工管理の仕事をしていました。
 継ぐと決めたきっかけは、先代の社長である祖父が危篤だと言われて病院に行った時です。祖父に会うのは10年ぶりぐらいでしたが、意識はあって、「何だ、勝之。来たのか」と。それから父に「跡取りがいるじゃないか」と言うのです。私はその時は、笑ってごまかしました。
 祖父は昔から父がやめようとするたび、「なんだ、やめるのか」と会社を継続させることにとてもこだわっていました。私も何か会社を残す方法はないかな、と考えてはいましたが、はじめは自分が継ぐとは思ってもいませんでした。どうすれば存続できるかいろいろ考えているうちに、自分がやってしまおうかな、という気持ちになったのです。
 それから36歳で前の会社を辞めました。ある程度の地位にあったので周りからはあきれられました。事業を大きくして儲けようというわけではなく、何とか続けていければよい、という思いでした。
 父には驚かれました。私がまさか継ぐとは思っていませんでしたし、私の兄も違う仕事をしており、自分の代で終わるつもりだったようです。
 現在、活字の鋳造は私一人でやっています。印刷も社長が一人で、組版と文選は80歳ぐらいの職人さんが2人、午前中だけお手伝いで来てくれています。

「ウマ(馬)」と呼ばれる棚に並ぶ活字。ここから原稿片手に活字を拾う文選作業は熟練の技がものを言う。

── 2017年に創立100周年を迎え、記念イベントを開いたそうですが、どのような内容だったのでしょうか?
 まず100周年のイベントをやるかやらないか、ずいぶん悩みました。大げさにせず、内輪で何かやればいいかな、とも思いました。社長と、60~70年勤めてきたうちの番頭の塚田さんがあまり乗り気ではなかったからです。
 ただ、昔の佐々木活字店のことを記憶していて、創業者のことを覚えているのはその職人さんぐらいです。ほかの職人さんたちも70歳80歳と高齢になっています。零細企業は、企業としての歴史を社史のような形に残すことはほとんどありません。ですからこの機会に職人さんから昔の話を聞いて、佐々木活字店の歩みを振り返るきっかけにしたいと思い、大正から昭和、平成という時代を振り返り、その記録をメインにした「佐々木活字展」を開くことにしました。
 イベントでは文選をするウマ棚を設置したり、昭和の時代の、活版印刷をする機械のパンフレットを置いたり、ちょっと大きい版を展示したりしました。私の中でのメインは、会社の歴史と写真と、昭和の時代に働いてくれた職人さんたちの写真を貼りだして、1人1人紹介した展示でした。親戚も来て喜んでくれましたし、小さいギャラリーでしたが、開催することができて本当によかったと思います。

── イベントには、どのような人たちが来場しましたか? また反応はいかがでしたか?
 イベントにはうちのお客さん、お得意さんのほかに、年齢層もばらばらな、いろいろな人たちが来場しました。3日間でたぶん200人以上は来てくださったでしょう。7割か8割は佐々木活字店というよりは、活版印刷に対する質問が多かったです。たとえば「名刺を作りたいんですけど」とか、「活字はどうやって使うのですか、どうやって作るのですか」など。主催者本人はそんなつもりはありませんでしたが、活版印刷のイベントみたいでした。

日本の出版文化史上、貴重な技術を保持しているとして、平成23年度、新宿区の地域文化財に指定された。

ニッポンの職人探訪 #2 佐々木活字店 / 佐々木勝之 – 後編へ続く


有限会社 佐々木活字店
住所:162-0806 東京都新宿区榎町 75番地
TEL:03-3260-2471
佐々木活字店WEBサイト http://sasaki-katsuji.com



この記事を書いた人
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