霧にさわった手こぐまにさわった手

ロシアの切り絵アニメーション作家ユーリ・ノルシュテインのドキュメンタリーをみていたら、まだゴーゴリの『外套』をつくりつづけているという。「わたしには手袋はひつようないんだよ。きたない手でいいんだ。ジブリはちがうかもしれないけどね」と不敵な笑みをうかべる。

わたしは大学のころも繰り返しノルシュテインのドキュメンタリーをみていたが、そのときもかれは『外套』をつくっていた。かれは、わたしがこけつまろびつしながら生きているあいだ、ずーっと、つくりつづけている。

わたしが生まれる前からノルシュテインはつくりつづけているが、『外套』はまだおわらないという。

もしかしたらもうつくりつづけるという行為そのものがノルシュテインにとってはアニメーションそのものになったのではないか。

そういうことってあるとおもう。待ち続ける行為そのものが生きることそのものになったりとか。

ベケットの『ゴドーを待ちながら』という戯曲では、ふたりの浮浪者がゴドーを待っている。ゴドーは来ない。明日もこないかもしれない。わからない。でも待たなければならないという。死のうか、ともときどきふたりは言う。あまりに待ち人がこないから。でも、ふたりは待ちつづける。死ぬことはやめて。あすも、あさっても、こないかもしれない。でも、待っている。そこ、で。

とつぜん、待ってることそのものが生きることそのものなんだとわかるしゅんかんがやってくる。ひとはなにかを待つのではなくて、ただ待つのかもしれない。ただ待つ。待っている。

太宰治「待つ」のことば。「いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている」

この記事を書いた人
yagimotoyasufuku
柳本々々(やぎもと・もともと)1982年、新潟県生まれ 川柳作家
安福 望(やすふく・のぞみ)1981年、兵庫県生まれ イラストレーター