シャツをこわすという感覚

一時期、文学のなかの倒れたひとやふとったひとにきょうみがあってずっと追いかけていた。

たとえば、レイモンド・カーヴァーの「でぶ」という短篇にはとってもふとった客にであうことで内面が変わり始めるウェイトレスの話が描かれる。ふとったおとこはいう。

「私だってできうることならでぶでいたくはなかったのです」

女の子のなにかが変わり始める。

萩原葉子の『父・萩原朔太郎』では、部屋の暗がりに倒れ、寝込んでいる朔太郎が描かれる。かれは、痔のために寝込んでいる。からだを横にすることで、いつもとはちがう風景をみていたかもしれない。朔太郎の詩は地面からなにかが生えてきたりする。病気の顔とか。それは、横になってはじめてみえた風景かもしれない。

ミステリーにも倒れたひとはたくさんでてくる。死体として。ミステリーとは、ふだん立っているにんげんが、横になったにんげんと出会うジャンルだともいっていい。風景が横にかわる。だとしたら、ふとったひとがでてくる小説は横に次元が変わる小説なのかもしれない。シェイクスピアのフォルスタッフとか。映画なら『市民ケーン』のオーソン・ウェルズとか。

ふとりにふとりきって横になっていたことがあった。でもそれはそれでひとつの文学のしゅんかんだったのかもしれない。井原西鶴の『好色一代男』では主人公の世之介が漂着し、横になったとき、親からの遺産がころがりこみ、人生が不思議なてんかいをみせはじめる。漱石の小説も、みんな、横になることで人生が不思議なてんかいをみせはじめる。

とってもむかしに駅の改札で女の子と待ち合わせをしていたときに「なんだかあなたが神様にみえたんだよ」と言われたことがあった。ふとりにふとりきっていたので、仏像にみえたのかもしれない。聞かんかったけど。

この記事を書いた人
yagimotoyasufuku
柳本々々(やぎもと・もともと)1982年、新潟県生まれ 川柳作家
安福 望(やすふく・のぞみ)1981年、兵庫県生まれ イラストレーター