竹久夢二美術館 学芸員 石川桂子

夢二があとがきに名前を記した島源四郎
 前回取り上げた春陽堂刊行の夢二著書『露地のほそみち』【図①】は、巻末に「島源四郎君の熱心と細心な監督によって、どうも気持の好いものが出来そうだ」(「校正の日、著者」より)と、謝辞が掲載されています。

①『露地のほそみち』(函・扉)

 本に対して大変こだわりが強かった夢二が、敬意を表して名前を記した編集者の島源四郎(しま・げんしろう 明治37年-平成6年/1904-1994)【図②】に注目し、その仕事ぶりと、夢二との交流について紹介します。

②島源四郎(株式会社春陽堂書店所蔵)

13歳で春陽堂の小僧に
 富山生まれの島は、大正5(1916)年3月末、小学校を卒業し、すぐ春陽堂に入りました。島は両親を亡くして孤児であったこと、叔父が出版部に勤務していた縁もあり、春陽堂に住み込み、13歳で働き始めます。
 小僧となるには、3人の保証人をたてて、さらに8年間の年季証文(年季として定められた年限は働くということを記した文書)を交わすのが慣例でした。この期間は修業であり、仕事を覚える意味合いが強かったため、給料は支給されませんでした。
 小僧の仕事は、本の荷造り、使い走り、製本所での手伝い、作家に検印を貰いに行くことなど多岐にわたり、朝9時から夜9時まで働いて、店を閉めた後は、先輩社員の布団を全部敷き10時に消燈という一日を送り、とても多忙でした。
 島が小僧だった大正初期の春陽堂は、小僧3、4人、中僧2人、番頭(出版部)2人、会計1人、営業部2人、支配人1人、社長、そして『新小説』編集部2人の人員で構成されていました。
島源四郎と夢二の交流
 島が夢二と初めて会ったのは、著書『露地の細道』『歌時計』(いずれも大正8(1919)年発行)【図③】の校正を届けた小僧時代のことでした。当時はまだ、親しく話をするには至りませんでした。

③『露地の細道』と『歌時計』

 ところで大正12(1923)年に発生した関東大震災によって、春陽堂は、本も紙型も全て焼失してしまいます。その復旧にとりかかる時分に、島は年季が明けて出版部に移っていました。この時に夢二の本を編集したい思いが募り、島は夢二の元を訪れて過去に刊行した「『露地の細道』を新しい版にしたい」と提案、この時期フランス行きを考えていた夢二(*1)が、お土産として持っていけるような本を造ることを目指しました。口絵【図④】は夢二が新しく描き直したものを木版で製作することになり、当時一番腕のいい職人が彫りと摺りを担当しました。その校正刷りを、島が夢二に持参すると「自分も沢山本を出しているけれども、こんなに自分の線がきちんと彫ってあるのは初めてだ」と大変喜ぶほどの出来栄えでした。他にも本文ページも二色刷りにし、凸版なども一点一画でも狂いのないように、島は編集に臨みました。大正15(1926)年に新しい版で完成した『露地のほそみち』は、あとがきに島への感謝の気持ちが述べられ、この仕事によって夢二から多大な信頼を得ました。

④『露地のほそみち』口絵

 島はその後、夢二の著書『露台薄暮』『春のおくりもの』【図⑤】を担当し、またプライベートも親しく交流しました。夢二が所属していたチームと春陽堂のチーム【図⑥】による軟式野球の試合をはじめ、一緒にテニスにも興じました。公私にわたり交流があった夢二の本を編集する際は、細心の注意を払って造ることを島は心掛けました。

⑤『露台薄暮』と『春のおくりもの』

⑥春陽堂店員の野球チーム(『中央文学』1920年8月号 掲載)

新小説社と夢二装幀『祇園囃子』
 島は春陽堂から独立し、日本放送出版協会での勤務を経て、昭和8(1933)年9月に出版社「新小説社」を立ち上げました。それからまもなく長田幹彦の著書『祇園囃子』の刊行準備を進めます。かつて春陽堂で出版した長田幹彦の著書を数多く夢二が装幀していて、さらに長田の希望もあり、再度夢二に依頼する運びとなりました。
 昭和9(1934)年の冬、島は夢二に会いにいきますが、訪れた場所は長野の富士見高原療養所でした。夢二は前年の秋に、2年4ヶ月に及ぶ外遊から帰国したものの、結核を患い、友人の正木不如丘(まさき・ふじょきゅう)が院長を務める、この療養所で入院【図⑦】していたからです。

⑦富士見高原療養所に入院中の夢二

 島が雪深い療養所を訪問した時、夢二は割合元気そうでした。「実は自分で商売を始めて間もないのですが、先生一つ装幀して下さい」と島が依頼したところ、夢二は「君の頼みならしょうがない、やってやろう」と引き受けました。夢二との面会後に、島は院長・正木にも会い、本の装幀を頼んだことを話すと、「馬鹿野郎、あいつはいま死にかかっているんだよ」と怒鳴られ、「実はもう幾許もないんだよ」と告げられました。
 夢二は装幀の依頼を受けると、通常は1週間から10日程で仕上げていましたが、今回は音沙汰がありませんでした。訪問から1ヶ月程経過して島が手紙を出すと、しばらくしてから舞妓が描かれた、装幀のための絵が届きました。
 昭和9(1934)年4月20日、夢二の装幀による『祇園囃子』【図⑧】が刊行されました。本書は夢二が手掛けた、生涯最後の装幀(*2)になりました。

⑧『祇園囃子』

【註】
*1 夢二のフランス行きは、送別会も開催されたが、旅費等を目的以外に使ったため、実現しなかった。
*2 長年付き合いがあった長田は、夢二が描いた舞妓を目にして「体を異様にまげた舞妓のあの侘しいポーズをみて、僕は不吉なことだが君の死を予覚したのであった。いくら病中の画人にしても、あんな恐ろしい筆触で、よにも艶麗であるべき舞妓を、ああいう風に表現出来るものぢゃない。あれはいたましい孤独感と宿命感の生ける屍であった。」(長田幹彦「竹久君」より 『書窓』第3巻第3号 1936年)と、その印象を書き残している。

【参考文献】
島源四郎 出版小僧思い出話(1)「大正時代の春陽堂」(『日本古書通信』第660号 1984年7月号)
島源四郎 出版小僧思い出話(3)「竹久夢二先生のこと」(『日本古書通信』第662号 1984年9月号)

(写真と図は、②を除き、すべて竹久夢二美術館所蔵の作品です)

この記事を書いた人
石川 桂子(いしかわ・けいこ)
1967年、東京都生まれ。竹久夢二美術館学芸員。編書に『大正ロマン手帖──ノスタルジック&モダンの世界』『竹久夢二♡かわいい手帖──大正ロマンの乙女ワールド』(共に河出書房新社)、『竹久夢二《デザイン》──モダンガールの宝箱』(講談社)、岩波文庫『竹久夢二詩画集』(岩波書店)など。