泉鏡花記念館 学芸員 穴倉 玉日(あなくら・たまき)

日本の浪漫主義文学、幻想文学を代表する作家・泉鏡花。彼は師である尾崎紅葉の紹介をきっかけに春陽堂から書籍を刊行するようになり、やがて社員として雑誌「新小説」の編集などにも携わるようになりました。
本連載では、泉鏡花と春陽堂書店の関係を、そして〝鏡花本〟とよばれる装幀と挿絵の美しい書籍の紹介、絵師たちとの関わりを紹介していきます。


泉鏡花と春陽堂
 「高野聖(こうやひじり)」や「婦系図(おんなけいず)」、そして「天守物語」を世に送り出した美と浪漫の作家・泉鏡花(本名:泉鏡太郎 明治6(1873)年~昭和14(1939)年)【写真①】の全集といえば、現在では岩波書店の『鏡花全集』を思い浮かべるのが一般的かと思いますが、鏡花の最初の全集を──しかも彼の生前に世に送り出したのは、他ならぬ春陽堂でした。

【写真①】泉鏡花 明治30(1897)年頃(泉名月遺族提供)

 他の多くの出版社同様、大正12(1923)年9月1日の関東大震災で壊滅的な被害を受けたにもかかわらず、2年後の同14(1925)年7月、春陽堂が『鏡花全集』全15巻の刊行を開始したことは、これからご紹介していくような両者の長年にわたる深い関わりがあってこそといえるでしょう。

師・尾崎紅葉を介して
 金沢に生まれ、17歳の年に作家をめざして上京した鏡太郎は、約1年後の明治24(1891)年10月19日午前、当時の牛込区横寺町の尾崎紅葉宅【写真②】【写真③】を訪れて門下生となることを許され、〝鏡花〟の雅号を授かります。

【写真②】横寺町の尾崎紅葉宅(泉名月遺族提供)

【写真③】尾崎紅葉 明治35(1902)年頃(泉名月遺族提供)

 早速、翌日から玄関番として住み込みで作家修業を始めることとなりましたが、この修業時代の最も印象深い思い出の一つとして鏡花が挙げているのが、明治25(1892)年9月に春陽堂から刊行された尾崎紅葉『夏小袖』【写真④】にまつわるエピソードです。

【写真④】『夏小袖』明治25(1892)年9月   

 モリエールの『守銭奴』を原作とするこの作品は、初刊にあたって〈筆者を言ひ中(あて)る懸賞〉(*1)がありましたが、門下生として原稿の清書に当たった鏡花は翻案者が紅葉であることを固く秘し、〈先生の作ということは、先生と私と、春陽堂の主人より外には誰も知らなかつた〉ことから師の信用を篤くしたと当時を回想しています(「紅葉先生の玄関番」明42.9)。
 鏡花のデビュー作は同25(1892)年10月から11月まで京都の「日出(ひので)新聞」に連載された「冠弥左衛門(かんむりやざえもん)」でしたが、初めて単行本となったのは同26(1893)年5月に春陽堂から発行された作品集『活人形(いきにんぎょう)』【写真⑤】であり、これは翌27(1894)年1月9日に郷里の金沢で死去した父・清次に見せることができた唯一の著書となりました。

【写真⑤】『活人形』明治26(1893)年5月


「滝の白糸」無断上演
 こうして、師・紅葉を介して接点を得て、やがて作家と版元の関係となった鏡花と春陽堂ですが、春陽堂発行の鏡花本は思わぬ形で彼の作品を世に広めるきっかけを作ることとなります。前述の父の死にともない帰郷した鏡花は、実家に残された祖母と弟(*2)を養うため金沢に滞在しつつ、自身の周辺に材を求めて作品を執筆、こうして郷里を舞台とするいわゆる〝金沢もの〟が誕生しました。
 その一つである「義血俠血(ぎけつぎょうけつ)」が紅葉の添削を経て同年11月に「読売新聞」に「なにがし」の匿名で連載されるとたいへん好評を博します。その評判は当時、作家志望に挫折して長岡の新聞社に勤めていた同郷の徳田末雄(秋聲)を刺激し、再上京を促したとの逸話を残すほどでしたが、前後して同紙に連載された「予備兵(よびへい)」とともに「義血俠血」が翌年の明治28(1895)年4月、『なにがし』というタイトルの単行本【写真⑥】として刊行された後、事件は起こりました。

【写真⑥】『なにがし』明治28(1895)年4月

 東京・浅草座で同年12月4日から上演予定だった「滝の白糸」という芝居が、実は紅葉と鏡花の合作である「予備兵」そして「義血俠血」を綯(な)い交ぜにして無断上演しようとしたものであることを記した謝罪広告が座長である川上音二郎の名で新聞紙上に掲載されたのです。

川上音二郎の謝罪広告のイメージ
白川宣力編『川上音二郎・貞奴』(1985 雄松堂)を元に作成


二号活字の謝罪広告
 見出しにも相当するような大きさの2号活字(約22ポイント/8ミリ角)21行にわたるこの広告は、当然ながら衆目を集める結果となりました。
 著作権の意識が低かった当時のこと、なかには〈川上ハ大馬鹿者(中略)其小説が何人の著作なりとも是を脚本として舞台に演ずるに何の遠慮何の憚(はばか)る事のあるべき〉(「都新聞」明28.12.6)との批判もあったようです。
 春陽堂の『なにがし』の表紙には原案の実作者である鏡花と校閲者である紅葉の名が併記されていたものの、新進作家の鏡花に代わって奥付に著者として名のある紅葉が矢面に立つ形となりました。前代未聞のこの騒動がかえって呼び水となったのか、浅草座の「滝の白糸」は興行的には大成功をおさめ、評判を聞きつけた他の劇団関係者が客席で芝居の内容を写し取り、さらに北海道や東北で無断上演を重ねるという事態となりました。
 こうして、乗合馬車の馭者(ぎょしゃ)として母子二人の生計を立てつつも、法曹家を志す青年・村越欣弥(むらこしきんや)と、彼に学資を用立て、その夢を叶えようとする女水芸師(おんなみずげいし)・滝の白糸の物語は、後にその長きにわたる人気と上演史から〝新派古典〟とも謳(うた)われるようになる当たり狂言「滝の白糸」としての一歩を踏み出したのです。

口絵が与えたインスピレーション
 それにしても気になるのは、川上音二郎が無断上演する際に用いた原本です。上記の謝罪広告には綯い交ぜにされた両作が「読売新聞」に連載された作品であることに加えて、〈合巻してなにがしと改題し書肆春陽堂より出版せるもの〉と明記されています。そして、この『なにがし』には、収録2作品それぞれの名場面が見開き1枚に描いた口絵【写真⑦】がありました。

【写真⑦】『なにがし』口絵 鈴木華邨画 明治28(1895)年4月

 特に「義血俠血」を描いた部分は川上演劇「滝の白糸」の筋書の表紙の構図にも用いられていることから、川上一座が春陽堂の『なにがし』をもとに舞台制作に挑んだことは容易に想像できます。
 当時の演劇界でも注目を集めていた〝日清戦争もの〟である「予備兵」と、〝裁判もの〟の要素を持つ「義血俠血」の二つを綯い交ぜ上演するという発想を川上音二郎に与えたのは、ひょっとしたら鈴木華邨(すずきかそん)の筆による『なにがし』の美しい口絵であったかもしれません。
【註】
*1 明治25(1892)年9月1日出版の『夏小袖』初版本の巻末には切り取り式の〝作者指名投票用紙〟が付されており、的中者には春陽堂の書籍が贈られる旨が記載されている。
*2 母の鈴(すず)は鏡花9歳の年に死去し、二人の妹はその後、養女に出されている。

(写真と図は、特に記載がない限り泉鏡花記念館所蔵の作品です。)
この記事を書いた人
穴倉 玉日(あなくら・たまき)
1973年、福井県生まれ。泉鏡花記念館学芸員。共編著に『別冊太陽 泉鏡花 美と幻想の魔術師』(平凡社)、『論集 泉鏡花 第五集』(和泉書院)、『怪異を読む・書く』(国書刊行会)など。また近年は、鏡花作品を原作とする『絵本 化鳥(けちょう)』(国書刊行会)や『榲桲(まるめろ)に目鼻のつく話』(エディシオン・トレヴィル)などの画本制作を企画、幅広い年齢層への普及に取り組んでいる。
≪≪関連書籍紹介≫≫
『泉鏡花〈怪談会〉全集』(春陽堂書店)東雅夫・編
アニメや舞台化でも話題を呼ぶ、不朽の文豪・泉鏡花。彼が関わった春陽堂系の三大「怪談会」を、初出時の紙面を復刻することで完全再現。巻頭には、鏡花文学や怪談会に造詣の深い京極夏彦氏のインタビューも掲載。令和のおばけずき読者、待望かつ必見の1冊!