第2回 絵師たちとの出会い ─鏡花、春陽堂の社員となる─

泉鏡花記念館 学芸員 穴倉 玉日(あなくら・たまき)

日本の浪漫主義文学、幻想文学を代表する作家・泉鏡花。彼は師である尾崎紅葉の紹介をきっかけに春陽堂から書籍を刊行するようになり、やがて社員として雑誌「新小説」の編集などにも携わるようになりました。
本連載では、泉鏡花と春陽堂書店の関係を、そして〝鏡花本〟とよばれる装幀と挿絵の美しい書籍の紹介、絵師たちとの関わりを紹介していきます。


明治期鏡花本の二大絵師 ─鏑木清方と鰭崎英朋─
 ところで、〝鏡花本〟といえば、やはり色彩豊かな表紙絵や口絵、見返しが目にも鮮やかな美麗な装幀【写真①】を思い浮かべるかと思います。最も多くの鏡花本の装幀を担当し、〈私は鏡花門人ですよ、絵筆で鏡花直伝の文章を書くんですよ〉(一門下生「思ひ出話 番町の先生」昭15.12)と語ったという稀代の意匠家・小村雪岱(こむら・せったい)が登場する以前、主に明治期の鏡花本を支えた二人の画人がいました。日本画家の鏑木清方(かぶらき・きよかた)、そして鰭崎英朋(ひれざき・えいほう)です。

【写真①】鏡花本の数々。春陽堂は鏡花の生前の単行本の半数以上を手掛けたが、千章館や平和出版社など、鏡花との交流が縁で誕生し、美装本を送り出した新興出版社もあった。


鏡花、春陽堂の正社員となる
 「東京日日新聞」の創立者の一人である戯作者・條野採菊(じょうの・さいぎく)を父とする鏑木清方(本名/健一 明治11(1878)年~昭和47(1972)年)は、明治24(1891)年、13歳の時に日本画家・水野年方(みずの・としかた)に入門、2年後に〝清方〟の号を授けられ、挿絵画家としての道を歩み始めました。そして明治30(1897)年7月、硯友社(けんゆうしゃ)系の作家・山岸荷葉(やまぎし・かよう)の処女作「紅筆」の口絵を描いたことを縁に、鏡花の師・尾崎紅葉の知遇を得ます。
 一方、後に「滝の白糸」の名で知られることになる出世作「義血俠血」(明27.11)を発表、好評を得たものの、明治27(1894)年1月、郷里の金沢で父・清次が死去した後、遺された祖母と弟を養い、家計を支える必要が生じた鏡花は、明治28(1895)年2月、牛込区横寺町の紅葉の膝下を離れ、小石川区戸崎町の博文館若主人・大橋乙羽宅に寄寓しつつ同社の『日用百科全書』の編纂に従事します。そのかたわら、同社発行の「文芸倶楽部」に「夜行巡査」(明28.4)や「外科室」(明28.6)を発表、これらは〝観念小説〟と称せられ、鏡花は気鋭の新進作家として文壇においても注目を高めつつありました。
 明治29(1896)年5月には小石川区大塚町の長屋に転居し独立、ようやく祖母と弟とともに一家を構えることとなります。さらに明治32(1899)年の秋には牛込区南榎町の二階家に転居【写真②】【写真③】、鏡花の書斎となった二階の四畳半の部屋には同じ牛込区内の紅葉も度々訪れ、門下生たちが会合する場面もありました。

【写真②】牛込区南榎町の家。
二階の縁側でくつろぐのは師の尾崎紅葉とされている。

【写真③】南榎町の家の一階。左から鏡花、祖母・きて、弟・豊春(斜汀)

 そして明くる明治33(1900)年、この書斎から鏡花の代表作となる名作が世に送り出されることとなります。同年1月、博文館の「文芸倶楽部」と双璧をなす春陽堂の「新小説」第5年第2巻誌上で後藤宙外(ごとう・ちゅうがい)を編輯主任に迎えた旨に加え、これまでの客員から正社員となることが告知されていた鏡花。そして2月、次号である「新小説」第5年第3巻において梶田半古(かじた・はんこ)の口絵とともに巻頭を飾ったのが「高野聖」でした。【写真④】

【写真④】南榎町二階の書斎で机に向かう鏡花 明治33(1900)年


鏡花作、清方ゑがく
 現在では「高野聖」といえば鏑木清方による艶麗な諸作が知られていますが、この時点では未だ面識がなかった両者。とはいえ、16歳の頃から鏡花作品を読み、心酔していたという清方。対面の機会は翌年訪れました。清方の日記や手控えに基づく「挿絵画家となりて」(『こしかたの記』収録 昭36.5)によれば、明治33(1900)年発表の鏡花の「三枚続(さんまいつづき)」が単行本化されることになり、翌明治34(1901)年5月6日、春陽堂から清方にその口絵と装幀の依頼がなされたのです。さらに約3ヶ月後の8月18日、その引き合わせの酒席が設けられ、鏡花との初面談を果たした清方。その日記には〈鏡花子曰く、春陽堂で画の話の出る時は、予は必らず君を推す。爾来(じらい)刎頸(ふんけい)の友たらむ〉と記載したと自ら語っています。
 以後〈鏡花作、清方ゑがく〉の数々の挿絵や口絵、装幀を手掛けることとなった清方。〈原稿が出来ると、牛込の泉君の家へ取りに行くこともあり、木挽町の私のところへ、泉君が持つて来てくれることもあつた〉(『鏑木清方文集 二 明治追懐』昭8.4)といいます。その後、次第に日本画家へと転向していった清方でしたが、鏡花作品に関しては挿絵や口絵を手掛け、鏡花の「通夜物語」のおいらん丁山(ちょうざん)を描いた「遊女」(大7)など、日本画制作の際に鏡花作品から想を得ることも度々でした。

「おもて二階」
 明治期の鏡花本を語る上で欠かすことのできないもう一人の人物、鰭崎英朋(本名/太郎 明治13(1880)年~昭和43(1968)年)は、誕生時すでに父は行方が知れず、母は他家に嫁いだため、その後は母方の祖父母に養育されました。明治25(1892)年、12歳の時に日本橋の履物商に年季奉公に入りますが、主人らによりその画力を見いだされ、明治30(1897)年、17歳で浮世絵師・右田年英(みぎた・としひで)に入門、〝英朋〟の号を授けられます。以降、年英門下で日本画を学ぶ一方、挿絵画家としても頭角を現し始めます。
  花との出会いの時期は明らかではないものの、鏡花に2年遅れての明治35(1902)年9月、英朋は尾崎紅葉の推薦で春陽堂の編輯局に入っています。英朋による鏡花作品の口絵・挿画・装幀類としては明治37(1904)年4月に「新小説」に掲載された「続紅雪録(ぞくこうせつろく)」の口絵が早い例といえるので、その初対面の場はやはり春陽堂であったと思われます。なお、鏡花は編輯局の様子を綴った「おもて二階 ―十周年紀年今昔談―」(「新小説」第10年第1巻 明38.1)において、〈春陽堂のね、表二階の編輯局は大分汚ない。(中略)彼処は夏は暑いですよ。そこへトントンと上る、箱火鉢があつて鉄瓶がかかつて、座蒲団が待つて居ます。ここへ鰭崎さんが来て画の水鉢に水を入れる。これで墨をすつて、受持の仕事にかかる。〉と、同僚としての英朋の姿を書き留めています。
英朋といえば、思い起こされるのは明治38(1905)年8月に春陽堂から刊行された鏡花の『続風流線(ぞくふうりゅうせん)』の口絵【写真⑤】。彼の生涯の代表作の一つとして最も有名は英朋作品といって過言ではありません。

【写真⑤】鰭崎英朋画『続風流線』口絵 明治38年(1905)8月


出会いの場としての春陽堂
ともに日本画研究団体「烏合会(うごうかい)」の結成メンバーでもあり、良き友人同士でもあった清方と英朋。明治後期から大正期にかけて表紙絵・口絵・挿絵などの印刷絵画・出版美術の世界で高い人気を誇り、美人風俗画においては双璧と謳われた両者は、『婦系図(おんなけいず)』初版本に見られるように、ときには鏡花作品の口絵を合作するなどして、その作品世界を盛り立てました。春陽堂は三者に出会いの場を与えたともいえるでしょう。
清方は昭和47(1972)年3月2日、鎌倉市雪ノ下の自宅にて逝去(享年93)。そして英朋は昭和43(1968)年11月22日、文京区千駄木の自宅でこの世を去りました(享年88)。現在、清方作品はその終の棲家の跡地に設立された鎌倉市鏑木清方記念美術館に、英朋作品は印刷美術の専門館である東京の弥生美術館でその多くが管理され、展覧会などを通して愛好者たちの目をたのしませています。
(写真と図は、特に記載がない限り泉鏡花記念館所蔵の作品です。)
この記事を書いた人
穴倉 玉日(あなくら・たまき)
1973年、福井県生まれ。泉鏡花記念館学芸員。共編著に『別冊太陽 泉鏡花 美と幻想の魔術師』(平凡社)、『論集 泉鏡花 第五集』(和泉書院)、『怪異を読む・書く』(国書刊行会)など。また近年は、鏡花作品を原作とする『絵本 化鳥(けちょう)』(国書刊行会)や『榲桲(まるめろ)に目鼻のつく話』(エディシオン・トレヴィル)などの画本制作を企画、幅広い年齢層への普及に取り組んでいる。
≪≪関連書籍紹介≫≫
『泉鏡花〈怪談会〉全集』(春陽堂書店)東雅夫・編
アニメや舞台化でも話題を呼ぶ、不朽の文豪・泉鏡花。彼が関わった春陽堂系の三大「怪談会」を、初出時の紙面を復刻することで完全再現。巻頭には、鏡花文学や怪談会に造詣の深い京極夏彦氏のインタビューも掲載。令和のおばけずき読者、待望かつ必見の1冊!