【第15回】


カモメに追いかけられながらフェリーで島原へ
 10月中旬の熊本~島原~福岡の旅について書きたい。熊本に「舒文堂じょぶんどう河島書店」という明治初期創業の老舗古書店があり、ここは熊本五高教師時代の漱石が通った店としても知られる。この店の五代目若旦那・河島康之さんが、私と古本屋探訪の雄「古本屋ツアー・イン・ジャパン」こと小山力也さんの同地での講演を企画、実施してくれたのだ。
 以下、古本屋探訪については書く予定の「古書通信」を読んでいただくとして、ここでは旅の話。熊本で1泊し、そのまま東京へ帰るはずだったが、せっかくの九州入りだからもったいない。自腹で福岡に1泊し、もう少し九州を移動することにした。18日朝、前の晩に講演をした鶴屋百貨店の裏にある「小泉八雲熊本旧居」を見学した後、市電に乗って熊本駅へ。前回、2001年2月に熊本へ来た時も空からだった。熊本駅は初めて。新幹線の開通により、モダンで立派な駅舎になっている。

 熊本に行くにあたって、私に秘かな野望があった。フェリーにぜひ乗りたいと思ったのである。熊本港から有明海の内海を横切って、対岸の島原までフェリーが出ている。持参したガイド本が観光の中心地本位で、熊本全体の様子がわからない。「小泉八雲熊本旧居」でもらった観光地図が全体をフォローしていた。それを見ると、駅から港までそんなに離れていない。市電の停留所2つ分くらい。それなら歩けると踏んで、熊本駅の観光案内所で尋ねたら「え、歩かれるんですか? 遠いですよ。無理じゃないでしょうか」と言うではないか。そこで件の地図を見せたら、どうやら周辺部の縮尺が正確ではないらしい。中世の地図みたいなのだ。あとで確かめたら約13キロの距離があった。「無理」と言われても仕方ない。
 フェリーで島原へ渡りたいと、重ねて尋ねたら、熊本駅から無料のシャトルバスが出ているという。本当は事前予約らしいが、席が空いているから大丈夫と確認して、発車までの間、昼飯を食べることに。駅なかの手打ちうどんの店「ふくいずみ」に入る。私はきつねうどんにおでん種の丸天をトッピング。別に小山さんとシェアするつもりでいなり寿司2個を。うどんはつるつるしこしこタイプで、出汁は醤油くさくない薄出汁で、こっちも好み。上通かみとおり商店街で食べたとん骨ラーメンもうまかった。熊本は麺の実力が高い街である。

 シャトルバスに乗り込んだのは我々含めて6、7名。国道をひた走り、トンネルを抜けて、港近くの荒涼たる風景を眺めながら、これは歩かなくてよかったと思う。フェリーに乗り込んだのは現地からの客を含め10名くらいか。よくこれで採算が合うなあと思って客席外デッキにいたら、次々と乗用車、トラックが乗船してくる。それで納得。たしかに熊本から長崎へ車で向かうのに、地べたなら有明海をぐるりと巡り大回りになる。フェリーならショートカットできるのだ。
 相棒の小山さんと二人、客室に入らず、船尾デッキのベンチに腰掛けて白く波立つ航跡を見る。途中から、いつまでもずっと10数羽のカモメがフェリーを追いかけてくるのに気づく。小山さんによると、このフェリーは客によるカモメの餌付けで有名だという。売店でエサ用にかっぱえびせんが売られ、そのエサ目がけカモメが群がり接近してくる。何かもらえると思い、この日もカモメが追いかけてくるのだった。
 ビール片手に、男二人でずっとカモメを見ていた。小さな目までよく見えた。こんな近くでカモメを拝むのは初めてかもしれない。カモメを見ているうち、対岸の山影が大きくなってきた。雲仙普賢岳である。静かな入江に突堤が近づいてきた。なんだかあっというまの1時間であった。島原は小雨に煙っていた。そこに、いかにも旅情を感じた。このあと島原鉄道で「島原」下車。少し町を散策し、再び島原鉄道で「諫早」へ。いつのまにか駅舎が大きめ諫早を訪れたのは、もう10年も前か。そのときは路面の鄙びた駅だった。どうやら新幹線が開通するらしい。特急「かもめ」自由席で博多に着いた頃は日が落ち、もう闇が包んでいた。


高井有一『時のながめ』を読む
 高井有一(1932~2016)という「内向の世代」に属する純文学作家がいる。私は熱心な読者ではないが、『時のながめ』(新潮社/2015)という美しい装幀のエッセイ集を古本屋の店頭均一で買って読んだ。これが高井の最後の著作となった。内容は身辺雑記と回想、作家の追悼など。
 今回初めて知ったが、高井の祖父は作家の田口掬汀きくてい。明治期に家庭小説というジャンルで一世を風靡した流行作家である。父は画家の田口省吾。高井有一、本名田口哲郎は東京生まれ。戦中の1943年に祖父、父を相次いで失い、母に手を引かれ妹と祖父の故郷である秋田県角館へ疎開する。敗戦後たちまち生活は困窮し、『時のながめ』によると、外国語に堪能な母は進駐軍の仕事を斡旋されるが拒み、やがて自殺したという。芥川賞受賞作『北の河』は未読だが、そのあたりのことが書かれている。ぜひ読みたい、という気持ちになってくる。読書の幅を広げるなんて、簡単なことなのだ。
 孤児となった高井は、母方の祖父を頼って上京、成蹊高校、成蹊大学と進む。川端康成を筆頭に、若くして父母を失った経歴を持つ作家(文化人)が多いことに気づく。いま思い付くだけでも、小泉八雲、中村真一郎、中西悟堂、西村伊作がそうだった。片親となると、もっと数が増える。不幸な生い立ちと作家の因果関係を考えたくなる。
『時のながめ』には、さまざまな作家との交遊、回想の文章が含まれる。いくつか紹介してみたい。古今亭志ん朝を、まだ朝太時代に聞いている。圓生主宰の「若手落語勉強会」で高座に上がり、「大工調べ」を熱演した。客席の最後列には圓生始め、父の志ん生などお歴々が並ぶ。これはやりくにくかったろう。登場人物である大工棟梁の政五郎を八五郎と言い間違えた。「首を振つて言ひ直したら、客が一斉に志ん生の方を振り返つたのが可笑しかつた」。息子のしくじりに親父がどんな顔をしているか見たかったのだ。
「内向の世代」と同世代の文芸評論家・川村二郎は2008年2月7日に死去。享年80。高井によれば、「夕食のあと夫婦二人で紅茶を飲み、先に寝室に入つた奥さんが、明くる朝起きてみると、椅子に倚掛つて安らかに死んでゐたといふ」。極楽往生とはこのことか。会葬に出席した者はみな、いい死に方だ、うらやましいと言った。永井龍男は鎌倉文学館の館長時代、同館で文芸講演をやった際、必ず出向いて講師に「鳩サブレー」の箱を手渡しねぎらったという。
 川端康成は文学全集全盛時代、ある大手出版社が川端の巻を3巻にして目玉にしたいと考えた。しかし、川端は「それはいけません。私の作品なんか、一巻に全部入つてしまひます」と断った。永井といい、この時代の作家は律儀で古武士のごとき姿勢を保っていた。
 なお、高井有一は共同通信文化部記者時代、大阪支社に転勤して寝屋川市に住んでいた。寝屋川は私が生まれ育った枚方の隣りの市。1964年から3年半住んだというが、それなら私と時期が重なっている。京阪電車の車内で、いつか乗り合わせたことがあったかもしれない、と想像するのは楽しい。
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『これからはソファーに寝ころんで 』(春陽堂書店)岡崎武志・著
旅先で起こった出来事、日常のささやかな発見。人生の寄り道・迷い道で心に刻んだことを、著者自身のイラストや写真とともにエッセイでつづる。それは、思わず「自分も出かけたくなる」「追体験したくなる」小さな旅のガイドにも。
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この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。