【第16回】


俵万智さんと大阪弁で
 11月半ばにさしかかり、暦の上では「冬」である。よみ人知らずの歌に「神無月降りみ降らずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける」がある。「神無月」は旧暦の10月を指す。大岡信『折々のうた』の解によれば、「時雨」は『万葉集』では秋季、『古今集』では冬季になる。都が「奈良から京都へ、微妙な季感の変化があったのかもしれない」という。「時雨」が冬の始まりを告げるのだ。 
 10月最後の日、某雑誌の仕事で俵万智さんを取材。俵さんに会うのは初めて。50代後半になると思われるが、おかっぱ頭に大きな印象的な目玉は、1987年に出版され大ブームとなった歌集『サラダ記念日』のカバーに使われた写真そのまま。福井県立藤島高校卒で早稲田大学へ進学。しかし、じつは14歳まで大阪で暮らしていた。出身は門真市(のち四条畷市)というから、枚方市出身の私とは「京阪電車」(大阪と京都を結ぶ私鉄)つながりである。10月26日に神保町で一緒にトークをした門井慶喜さんは、現在寝屋川市在住で、こちらでも「京阪」話に花が咲いた。「京阪」は続くよどこまでも。取材した著書『牧水の恋』にも、ところどころ大阪弁による突込みが出てくる。ふだんは標準語だが、父親が大阪弁を使うため、ときおり出てしまうとのことである。
 私は「その気」になって大阪弁で話を聞いたが、途中から俵さんも大阪弁にシフトしていくのが楽しかった。学習指導要領の変更により、国語教育が「実用」と「文学」の選択になる(大ざっぱに言って)という話題を振ったら、「それは、あかん!」とおっしゃったので、うれしくなった。
 取材場所に使ったのは帝国ホテルのラウンジ(「ランデブーラウンジ」が正式名称だが、なんだか恥ずかしい)。取材を終えて編集者と、とっぷりと日が暮れた日比谷の街へ。歩廊をはみだして、女性たちが群がっているのは、宝塚劇場の「出待ち」をしていると編集者に教えられる。各スターの名を書いたプラカードを持って、職員が整理にあたるが、熱狂と混乱を収めきれていない。そうか、こういう世界もあるのか。
 もう20年以上も前(だから時効だと思うが)、この近くにある歯科医に通っていた。私の当時編集を担当していた雑誌の編集長が、この医院の院長と大学時代の親友で、「オレが言えば、タダで治してくれるよ」と言われ、本当に図々しくも無料でしばらく通い治療してもらったのだ。最寄りの地下鉄入口へ。不二家のビルの向こうは夕焼けだ。

「何となく男と話したかった」
 八千草薫さんが2019年10月24日に死去し、偶然だがタイミングを合わせたように「日本映画専門チャンネル」で主演したドラマ『夕陽をあびて』が放映された(全3回)。脚本は山田太一。見るのは初めてではないが、1989年放映で記憶は微か。初めて見るように面白い。東京の東日暮里あたりの路地にある古い木造家屋に住む老夫婦が八千草と夫の大滝秀治。大滝は62歳、という設定だが(それなら私と同じ)、もっと老けて見えて、最初、八千草が「お父さん」と呼ぶのを、親子だと勘違いしたくらい。
 定年後、無気力になって、ただ家でテレビを見るだけの夫を不満に思う妻が、オーストラリア移住の話を聞いてその気になり、体験ツアーに嫌がる夫を連れ出すというのが主な筋立て。1989年はバブル絶頂期で、通産省がリタイア世代を海外移住させる計画を打ち出した。日本人退職者がこれに乗って、カナダやオーストラリアへ移住し、家を買って悠々たる人生を送った(と思われていた)。
 オーストラリアでは金利が高く、貯金と年金だけで暮らせる。しかも芝生の庭とプールつきの郊外住宅が数百万円から買えるという。自然は雄大で美しく、物価は安く、天国のような余生が待っていると、いいこと尽くめの話に乗せられた。ところが実際は……という話である。

 私が興味を持ったのは、本筋とは違う話。テレビが壊れて、何もすることがない大滝が、以前父親が床下を掘って埋めたものがあることを思い出し、床板を上げて掘り始める。すると出てきたのは古風な方位磁石。なぜ、父親はこんなものを埋めたのか。外交的な八千草に比べ、家に引きこもりがちな大滝は、そのことを常日ごろ責められる。まるで話が合わないのだ。そんなところへ「床下から磁石」と言ってもとうてい通じない。
 そこで、団地に住むサラリーマンの息子(四代目桂三木助)の元を訪ね、磁石を取り出して話をする。なんでまたそんなものをわざわざと不思議がる息子に大滝が言う。
「何となく男と話したかった」
 これ、山田太一でないと書けないセリフである。なにごとも実利的な妻(それで家庭は安定して前に進む)には話せない、話せば必ず「バカバカしい」と一蹴されてしまうだろうことも、男同士なら、なんとなく通じ合えるのではないか。そういうことってあるよなあ、と私は思ったのだ。単純な私は、急に、京都に住む七つ違いの弟と話したくなって、「いや、別に用事じゃないんやけどな」「あ、うんうん」と電話で会話をしてしまった。

ひと晩で3つの書評依頼あり
 11月某日、深夜メールを開いたら、週刊誌、月刊誌、新聞と3つの媒体から同時に書評依頼が舞い込んでいた。大いに驚く。私の長くなったライター歴でも、こんなことは初めて。エンタメ、純文学と小説2冊に、エッセイが1冊と、みごとに内容もばらけている。締め切りは3つで10日間ぐらいの期間。その間に、レギュラーの「サンデー毎日」で毎週5冊を紹介する締め切りが2度あるから、大変なラッシュとなるが、迷わずすべて引き受ける。書評の仕事は、私のライター稼業におけるトップの営業品目で、表看板だと考えている。始終、原稿にすることを意識しながらメモしながら読んで、メモ(そのうち10分の1も生かせない)をもとに、要点や引用カ所を決め、全体の流れを再構築して原稿(たいがい800字前後)にまとめる。面倒な話だが、これが少しでも面倒になったら、その時はもうリタイアである。

晩秋のトワ・エ・モア
 朝日新聞金曜夕刊の招待券プレゼントに応募し、招待券はハズレたが優待券が送られてきた。さいたま市民会館おおみや(旧・大宮市民会館)で、「トワ・エ・モア&白鳥恵美子」コンサートを妻と聴きに行く。本来、一人6500円が、優待券を使うと二人で5000円となる。かなりの「優待」である。現在の名称より、大宮市民会館と呼んだ方が似合う建物は相当古そう。出来たのは昭和40年代、と踏んだが、調べたら1970年開館でやっぱりそうか。「8時だヨ! 全員集合」の公開録画が行われた由。
 窓口で交換したチケットでは「2階席」とあり、悪い席かと思ったが、客席は1、2階が完全分離ではなく、緩やかなスロープで途中、段差があり、後ろ半分を「2階席」と呼ぶらしい。その2階席の前から2列目とまずまずの席。1部がトワ・エ・モア。2部の前半が白鳥恵美子のソロで、後半また芥川澄夫が加わって二人という構成である。1969年のデビュー曲「或る日突然」がいきなりヒット、活動歴は5年と短いが、「誰もいない海」「空よ」「初恋の人に似ている」「愛の泉」「地球は回るよ」など、記憶に残るヒット曲を残してきた。一度解散し、1980年代に二人でまた歌う機会があり、本格的に再結成されることになった。ファンだった私などは思いがけないことでうれしかった。白鳥はソロで歌手活動を続けていたが、芥川は音楽プロデューサーという裏方に徹し、歌うことを止めていたのでなおさらだった。一度ぜひ聞いてみたいデュオであったのだ。

 トワ・エ・モアの良さについて書き出すと、大幅な字数を費やすことになる。楽曲のクオリティの高さと、確かな歌唱力、清潔感あふれる雰囲気は秀逸な存在で、50年を経た今も、そのまま印象は変わらない。MCで書いておきたいエピソードを一つ。1970年にヒットした「初恋の人に似ている」は、作詞・北山修、作曲・加藤和彦という名コンビ。どうしてもこの二人に曲を作ってほしいと頼んだら、スタジオに加藤和彦がギター持参で現れてこう言った。「これから10曲歌うけど、途中で『これがいい』とか言わないで、最後まで聞いて」。そして加藤が作ってきた10曲を歌った。終ると、芥川と白鳥(当時は山室)は揃って、これと指さした。それが「初恋の人に似ている」だった。そう話したのは芥川だったが、白鳥は「私は覚えてないのよねえ」と言う。同じ場所で同じ時を過ごして、覚えていることが違うというのはよくあること。
 普通、一度ステージが終わって引っ込んで、客席のアンコールでまた出てくるというのがお約束のパターン(白々しいとも言える)だが、この日二人は、たくさんの拍手を受けながら最後の挨拶をして、「このままじゃあ、帰れませんよね。よし、行こう!」とそのまま追加で2曲歌った。この終わり方もよかったのでした。
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)

『これからはソファーに寝ころんで 』(春陽堂書店)岡崎武志・著
旅先で起こった出来事、日常のささやかな発見。人生の寄り道・迷い道で心に刻んだことを、著者自身のイラストや写真とともにエッセイでつづる。それは、思わず「自分も出かけたくなる」「追体験したくなる」小さな旅のガイドにも。
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この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。