【第11回】「道の匂い」があるのです

 担当編集者との打ち合わせを終えて、自宅に戻る途中、あまりにも空が青いので、せっかくだから近所をひとまわりして帰ろうと思いました。
 ぼくは歩いていた大通りを折れて、あまり車の通らない細い道へと入っていきます。
 空を見上げて雲の形を楽しんだり、風の音、樹々の葉擦れの音、自分の靴音に耳を傾けたりしていると、知らぬまに心が整ってきて──、なんだか瞑想に近い感覚を味わえます。
 でも、そうやって視覚と聴覚の遊び心のスイッチをオンにして歩いているときに、ふいに力づくでぼくを瞑想的な状態から目覚めさせるものがあります。それが、嗅覚への刺激です。
 この日の嗅覚刺激は強烈でした。道沿いの民家から、やたらと美味しそうなカレーライスの匂いが漂ってきたのです。静かに整っていたぼくの頭のなかで、ポンと小さな爆発が起きて、一瞬にして感情が乱れてしまいました。たまたま、ちょっぴり空腹だったせいもあって、ぼくの頭のなかは、もはやカレーへの欲望でいっぱいに……。
 こうなったらもう、あえて「嗅覚散歩」に切り替えてやる──と、ぼくは意識を「鼻」に集中させながら歩いてみることにしました。
 すると、これが意外なくらいにおもしろかったのです。
 まず、歩く道によって、匂いがまったく違うということに気づきました。近所のアスファルトの坂道を登っているときは、ちょっと埃っぽいような乾いた匂いがします。樹々の多い湿った土の道には、豊潤な腐葉土の匂いと、乾いた落ち葉の匂いがいい具合に混じり合っていて、ぼくは思わず深呼吸。
 すー、はー。
 ふと足元を見ると、カラフルな落ち葉に混じって、アザミが「ロゼット」になって越冬していました。「ロゼット」というのは、地面にぺったりと葉っぱをくっつけた状態のことです。植物によっては、この形で越冬するのです。

越冬するアザミのロゼット

 さらに歩くと、新しい住宅地を抜ける道の匂い、昔ながらの住宅地を抜ける道の匂い、生垣のある小径の匂い、見通しのいい畑のなかの道の匂い。
 そして、雑多な商店街の匂い──。それぞれの匂いから色んな妄想を膨らませつつ、小説家は黙々と歩き回るのです。
 ぐるりと1時間ほどの「嗅覚散歩」をして、自宅の近くに帰ってきたとき、道端に咲く一輪の水仙の花を見つけました。
 ぼくにとっては、金木犀の次に好きな匂いを放つ花です。
 せっかくだから、嗅いでいこうかな──。
 ぼくは周囲をいったん見回して、誰もいないことを確認してから道端にしゃがみこみ、水仙にそっと鼻を近づけました。
 うん、やっぱり清々しくて、いい匂い。
 水仙の匂いを真冬のあいだに楽しんでいると、いつの間にかそれが梅の匂いに取って代わります。そうなれば、もう、遠くから春の足音が忍び寄ってきます。
 冬が深まり切って、気分が春へと向かい出す──、その切り替えスイッチが、ぼくにとっては水仙の香りなのだと思います。

ぼくは水仙の花の清楚な匂いが大好き

 ちなみに水仙の学名は、ナルキッソス。
 ナルシスト、ナルシシズムといった言葉の語源となった、ギリシャ神話に登場する美少年の名前です。水に映る自分の美しさに恋するあまり、水辺から離れられなくなってしまい、やがてそのまま水仙になってしまったというゾッとするような物語は有名ですよね。
 しかも、水仙って、じつは毒草なのです。
 真冬のあいだ可憐な姿で咲き誇ってくれる、とてもいい匂いの花ですが、散歩中に出会ったら、視覚と嗅覚だけで楽しみましょう。
(写真は全て筆者撮影)

この記事を書いた人
森沢 明夫(もりさわ・あきお)
1969年、千葉県生まれ。小説家。早稲田大学卒業。
吉永小百合主演で映画化された「虹の岬の喫茶店」をはじめ、有村架純主演の「夏美のホタル」、高倉健主演の「あなたへ」など、映画やドラマとして話題になったベストセラーが多い。また、エッセイ、絵本、作詞なども手掛けている。近刊には「エミリの小さな包丁」「かたつむりがやってくる」「水曜日の手紙」「雨上がりの川」などがある。