【第21回】


坪内祐三死去
 坪内つぼうち祐三ゆうぞうさんが亡くなった。1月13日、心不全が死因である。最初に私のところに知らせが入ったのは13日深夜。かつて坪内さんも仕事をしていた雑誌「彷書月刊ほうしょげっかん」の元編集者から「もうご存じかもしれませんが」と前置きして「坪内さんが亡くなられました」とメールが届いた。一瞬、「坪内さん」というのが頭の中で「坪内祐三」と変換されず、私の知らない誰か(と思いたい)とも想像し、しかし彼が私にメールで急報するのだから、これは間違いない。そう納得するのに、少し時間が必要だったのだ。信じたくないという気持ちも理解を邪魔した。
 その翌日、朝刊に死亡記事は出ず、やはり誤報かとも思ったが別の知り合いからも同様のメールが入り、もう間違いないと観念した。坪内さんは私より一つ下の1958年生まれ。まだ61歳だった。経歴や業績をここで書く気にはならない。知っている人は大いに知っているし、知らない人は名前さえ知らないだろう。1月15日の「朝日新聞」朝刊には顔写真入りで訃報が出た。並外れた博覧強記とともに凄腕のもの書きであった。
 訃報が出てからは、しばらくどこで誰と会っても、まず話題はその話からだった。一緒に仕事をした人は、特に大きなショックを受けたようだ。あらためて、大きな存在だったと感じ入った次第である。
 前も書いたり、話したりしているかもしれないが、私にとっては重要な初めての出会いをあらためて書いておこう。まず年代ははっきりしない。記憶力抜群の坪内さんなら、「岡崎さん、あれは〇〇年ですよ。だって、あの時〇〇が〇〇したんだから」と直ちに答えるはずだ。はっきりしているのは、お互い、まだ自分の著作を持たないフリーライターという身分であったことだ。
 2人は30代半ばか。私は雑誌のライター以外に、関西時代の仲間と書物をテーマにした同人誌「sumus(スムース)」を作っていて、坪内さんにもそれは送られていた。この雑誌の存在を、最初に活字で触れてくれたのは坪内さんのはずである。これはありがたかった。私は無名だったが、その頃すでに、各方面で坪内祐三というとびぬけた書き手がいるという認知はされていたのである。
某年某月某日、私は雑誌の記事を書くために、京王線「八幡山」駅から少し歩く「大宅おおや壮一そういち文庫」にいた。ここで雑誌検索して、必要な記事をコピー(有料)してもらうのである。ネットが普及して、ここを使うマスコミは激減したが、かつてはみんなここを頼りにしていた。私も雑誌編集者時代から、じつによく通ったものである。
 1階でカード検索(現在はパソコン端末)をして申請書を書く。2階に上がり、カウンターで申請書を提出し、選んだ雑誌が揃ったらカウンターから名前を呼ばれる。そういうシステムになっている。席に座り、自分の名前を呼ばれるのを待っていると、「坪内さーん」と声がかかり、隣りに座っていた青年が立ち上がり雑誌を受け取りに行った。何かで顔写真を見ていただろうか。とにかく、坪内祐三に間違いないと思い、席に戻ってきてから少し間をおいて「あのう、坪内祐三さんですか?」と私が言った。
 業界で名前が知られつつあるとはいえ、外で知らない人に声をかけられる、なんてことはまだなかったろう。坪内さんは激しく動揺していた。そこで「あのう、『sumus』をやっている岡崎武志です」と名乗った。すると「ああ、岡崎さん」とすぐ返ってきた。そこは静かに資料をチェックするところで、私語は慎まなくてはならない。終わったらメシを食いに行きましょうと、これはどちらから誘ったのだったか。とにかく2人で大宅文庫を出て、駅を過ぎ(その頃、八幡山の駅前に食べられるところは少なかった)甲州街道を渡ったあたりにある定食屋に入った。
 ずいぶん後で、この時の話をしたら、坪内さんは「オレはB定食で、岡崎さんはC定食を頼んだんですよ」と、そんなことまで覚えていた。そこでいろいろな話をしたわけだが、これも私ははっきりと覚えていない。坪内さんによれば、「あの時、岡崎さんは、オレみたいなのが本を出すようになれば、僕も出せるようになると言ったんですよ」と、その通りのままではないかもしれないが、そういう意味のことを言ったらしい。それからすぐに始まる坪内さんの快進撃をみれば、ずいぶん失礼なことを言ったもんだと思うが手遅れである。
 つまり、作家でもなく、大学教授のような専門性もなく、エッセイストの肩書きもなく、雑多な文章を引き受けて書くフリーライターは、その時代(25年くらい前だと思う)に著作を持つことは難しかった。私はすでに坪内祐三を書き手として意識していたが、こっちは吹けば飛ぶような存在だったのであるから余計にそうだ。
 とにかく、ここで互いに認知を得た。そのあとすぐ、坪内さんが執筆し、編集部に出入りしている先述の「彷書月刊」に、「岡崎さんという書き手がいて、ぜったい原稿を頼んだほうがいいよ」と進言してくれた(と、後で知る)。古本屋探訪のような連載がいいのではないか、と企画まで出してくれて本当に始まったのが「気まぐれ古書店紀行」であった。マイナーな雑誌ではあったが、これが私の初の連載となり、古本および古本屋について文章を書く端緒となった。その後、この取材や原稿依頼が増えてきて、著書を持つまでに至る。古本ライターなどと、それまでになかった肩書きも得た。それが今日にまで至っているから、まちがいなく、坪内祐三さんは私の恩人である。
 坪内さんとは「彷書月刊」との関わりで言えば、その後一緒に座談会に加わったり、同誌の忘年会に出たり、あるいは初の著書『ストリートワイズ』の出版記念会にも招かれるなど、しばらく交遊が続いた。2010年10月号(300号)をもって同誌が休刊してからは、あまり会わなくなった。この10年の坪内さんの活躍は華やかで、誰もが原稿を頼みたい書き手となっていた。著書もどんどん世に出て、まぶしいほどであった。そういえば、池袋「ジュンク」で、坪内さんとトークショーをしたことがある。調べてみると、2006年2月23日のことだった。タイトルは「人生いたるところに古書店あり!」。
「彷書月刊」恒例の忘年会を、神保町の「八羽はっぱ」でやった時、たぶん私が仕事の上の愚痴みたいなことを坪内さんに告げたんだと思う。忘年会がはねて2次会へ行く途中だったか、靖国通りを渡る横断歩道の途中で、坪内さんが後ろから追いかけてきて私にこう言った。「あのさぁ、岡崎さん。イヤなことがあったら、いつでも連絡しておいでよ。一緒に飲もうよ。おれ、何でも話を聞くからさあ」
 私の脳裏には坪内さんの話しかけるこの時の姿勢と声音、点滅し始めた信号など、一瞬の光景がはっきり焼き付いている。うれしかったなあ。いい男だなあ、とも思った。同じような恩義を感じている人は、ほかにも大勢いるはずだ。
 坪内さんが書評、評論の分野で開拓し、積み上げた仕事の質量は圧倒的で、とうてい我が仕事と比べられるものではない。他人から指摘される前にそう言っておく。だから、坪内さんと私が親しかったとか、分かり合っていたなどと言うつもりはないのである。ただ、お互いに、本が出たら必ず贈り合っていた。そのことは長らくずっと続いた。控えめに考えても、あの時「大宅文庫」で声をかけて、一緒に昼飯を食べて語らった日を、おそらく坪内さんも大事に思っていてくれたのではないか。ここ10年くらいは、数回しか顔を合わすこともなかったから、ほかに理由を考えられない。
 私は近しい人たちが気軽にそう呼ぶ「ツボちゃん」を使う気にはなれなかった。あくまで「坪内くん」。私にとってはいつまでも「坪内くん」なのである。じゃあ、坪内くん、さようなら。


カラフルな『現代文』
 私の学校の成績は本当にひどく、進級会議にかけられるほどだったが、唯一「国語」の成績だけはよかった。高校の国語の教科書を、学年が改まって配付されるとき、受け取るのが非常にうれしかった。教わるテキスト以外の文章も熱心に読み、多くの作家を知り読書の幅を広げていったのである。
 今でも、高校一年の時に使っていた「現代国語」の教科書があれば、もう一度現物を見てみたいと思う。古本屋や古本市に出入りするようになってから、多少そのことを意識し、教科書があれば手に取るようになった。しかし、多くは古書として資料的価値が出る昭和20年代くらいまでのもので、ここ数十年のものはめったに出ない。高円寺の西部古書会館の古本市で最近見つけて買ったのが、2007年検定済みの『精選現代文』(東京書籍)。300円だった。中を開いて驚いたのは、まず写真やイラストを含め、カラー刷できれいなこと。巻頭の「評論文」は茂木健一郎「最初のペンギン」と清岡卓行「ミロのヴィーナス」。後者は、私たちの時代から教科書採択でおなじみの作品だった。茂木の文章にはカラーのイラストがつく。これが安西水丸あんざいみずまるの手によるもの。いかにも楽しそうな誌面になっている。
 教材の書き手は、村上春樹を始め、小川洋子、リービ英雄ひでお、中村桂子、養老孟司など今っぽい人選がなされている。と同時に、吉野弘や谷川俊太郎の詩、中島敦「山月記」、夏目漱石「こころ」、志賀直哉「城の崎にて」、森鷗外「舞姫」、梶井基次郎「檸檬」と、昔からの定番作品も目次に挙がる。漱石や鴎外が国語の教科書から消えていくと聞いたことがあったから、ちょっとホッとしました。国語教師の経験がある身として言うと、こうした定番作品があれば、年に一度か二度、教材研究をしなくても授業ができる。経験も加わって、より密度の濃い授業になるのだ。
 あと、もう一つ。注や図版が親切だ。「檸檬」では「蓄音器」に解説とカラー写真が入っている。
作品の「私」(梶井基次郎)が、寺町通りを南下し、「果物屋」で檸檬を買い、「丸善」の洋書売り場にそれを置いてくる。その道中が「当時の寺町通りとその周辺」という地図で示されている。これは便利。「丸善」が河原町通りではなく、もっと西側の麩屋ふや町通ちょうどおりにあったことがはっきり分かる。本文用紙も上等。いやあ、こんな教科書を使っているなら、いまの高校生よ、もっと「国語」を好きになりなさい。
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)
《『Web新小説』開催イベントのお知らせ》
岡崎武志さんと行く 春爛漫の早稲田界隈~漱石&春樹散歩
※新型コロナウイルス感染症の拡大防止に係り、4月11日開催予定のイベントは延期となりました。
詳細はこちらをご覧ください。

・日時: 2020年4月11日(土)
・時間: 13時30分スタート/12時30分受付開始(16時ごろ文京区胸突坂周辺で解散予定)
・集合場所: 新宿区立漱石山房記念館(新宿区早稲田南町7)
・参加チケット: 『Web新小説』会員…3300円/一般…4400円
※税込み。漱石山房記念館観覧料を含む
・募集人員: 25名程度
大人気の書評家岡崎武志さんと一緒に、早稲田界隈を巡る文学散歩にでかけませんか? テーマは明治時代の文芸雑誌『新小説』で活躍した夏目漱石と、早稲田にゆかりの村上春樹。講師ならではのわかりやすい文学解説が聞けること請け合い。『Web新小説』の会員になると、お得な会員価格で参加できます。
『これからはソファーに寝ころんで 』(春陽堂書店)岡崎武志・著
旅先で起こった出来事、日常のささやかな発見。人生の寄り道・迷い道で心に刻んだことを、著者自身のイラストや写真とともにエッセイでつづる。それは、思わず「自分も出かけたくなる」「追体験したくなる」小さな旅のガイドにも。
さらにユニークな書評、映画評も盛り込んだ、まるごと1冊岡崎ワールド!
この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。