【第13回】揺るぎない力を想う

 散歩の途中によく立ち寄る、お気に入りの喫茶店がありました。
 いわゆる「顔なじみ」というやつです。
 ある日、その喫茶店に行くと、定休日でもないのにシャッターが降りていて「一筆箋」が1枚だけ貼られていました。
 ぼくは近づいていって、そこに書かれている短い文章を読みました。
 マスターが病気になり、治療のためしばらく休業します──。
 ざっくり言うと、そういう内容が書かれていました。
 病気か。早く治って欲しいな……。
 その日のぼくは、胸に黒いもやを抱えながら散歩を続けました。
 それからひと月、ふた月、と時間は流れたものの、喫茶店のシャッターはぴたりと閉じたままでした。
 一筆箋は定期的に貼り替えられていきましたが、相変わらずマスターの病状は回復していないようで、文末にはいつも「もうしばらくお休みさせて頂きます」といった一文がありました。
 さらに時が経ち、新しい一筆箋に気づいたぼくは、小躍りしたいような気分になりました。そこには、こう書かれていたからです。
 ご心配をおかけし、申し訳ございません。体調は少しずつよくなっております。もうしばらく休ませていただきます。宜しくお願い申し上げます。
 ──店主。
 これを読んだときは、心の深いところから安堵して、身体が軽くなり、ぼくはいつもより大股で歩きました。風景の彩度も高く、明るく見えていたような気がします。
 近隣の幼稚園のフェンスに沿って、ぼくの好きな水仙が咲いていました。
 それから約1年後──。
 開かずのシャッターに、最後の一筆箋が貼られました。
 お客様各位
 いつも心配をいただきまして、誠にありがとうございました。この度、店主は医療関係の方々にご尽力を賜りましたが、その甲斐もなく永眠致しました。お客様には、本当にありがとうございました。
 心からお礼を申し上げます。
 ──店主家内
 ぼくは少しのあいだシャッターの前で立ち尽くし、この喫茶店に通っていた頃のことを想いました。
 馥郁ふくいくとしたコーヒーの香り、取材場所として使わせてもらった日々のこと、そして、白髪のマスターのやさしい笑顔。
 ため息をこらえて歩き出すと、去年と同じ場所に、同じように水仙が咲いていました。ぼくは、黙々と歩きました。ふと桜の木があることに気づいて、枝を見上げると、暮れかけた薄紫色の空をバックに、たくさんの新芽がついていました。

新芽をつけた桜の木に想う

 ため息の代わりに「ふう」と、深呼吸をひとつ。
 春は揺るぎない力で近づいてくるし、冬もまた同じ力で過ぎ去っていきます。
 きっと、この世界の揺るぎないものを想えばこそ、他愛ない人生の散歩道も輝くのでしょうね。
 ぼくは本当にそう思います。
(写真は全て筆者撮影)

この記事を書いた人
森沢 明夫(もりさわ・あきお)
1969年、千葉県生まれ。小説家。早稲田大学卒業。
吉永小百合主演で映画化された「虹の岬の喫茶店」をはじめ、有村架純主演の「夏美のホタル」、高倉健主演の「あなたへ」など、映画やドラマとして話題になったベストセラーが多い。また、エッセイ、絵本、作詞なども手掛けている。近刊には「エミリの小さな包丁」「かたつむりがやってくる」「水曜日の手紙」「雨上がりの川」などがある。