【第22回】


宇宙船で読まれた『白鯨』
『ディープインパクト』(1998)はスピルバーグ製作総指揮、ミミ・レダー監督による大それた映画。地球に巨大隕石が接近、地球の破滅を阻止するためアメリカが立ち向かう、といった説明でよろしいでしょうか。CGを駆使したおバカ映画という感じもあるが、なにしろロバート・デュパル、モーガン・フリーマン、ヴァネッサ・レッドグレイヴと名優を揃えている。その点でのクオリティは保証されているわけだ。

 さて、ここで取り上げたいのは、またまた本の話。地球を救うため、核弾頭を積んだ宇宙船が巨大彗星に突っ込むことになる。その船長がロバート・デュパル。彼は読書家で船内に二冊の本を積み込んでいる。一冊は『白鯨』で、もう一冊が『ハックルベリー・フィンの冒険』。老将である彼は、若い船員たちが本を読まないことを嘆く。死を前にして、視力を失った船員に、本を読んできかせる。それが『白鯨』だった。「心の中はいつも雨降る11月……」とあるのは、第一章の冒頭部分(同作は「語源」「文献抄」が最初に付く)。新潮文庫版(田中西二郎せいじろう訳)で該当部分を引いておこう。
「まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ。(中略)口のまわりに不機嫌なしわの出来たとき、こころのうちに十一月の湿っぽい糠雨ぬかあめの降りつづくとき」
『白鯨』はその後、様々な人の手を経て新訳(千石せんごく英世ひでよ、八木敏雄など)が出るが、新潮文庫初版(1952年)の田中訳は今からするとやや古風。「まかりいでたのは」なんて軽業の口上みたい。しかし、古風であるがゆえの格調がある。その後に続いて出た岩波文庫版の阿部知二ともじ訳と比べたいが、それはちょっと無学がばれそうで、私の手には余る。そうっとしておいていただきたい。
 アメリカ人にとって魂の故郷ともいうべき神話的大作、メルヴィル『白鯨』が出版されたのは田中西二郎「訳者のノート」によれば1851年、まずロンドンで、次いでニューヨークで出版された。日本はまだ江戸時代の幕末。ペリーの黒船来航が西暦に直せば1853年だから、『白鯨』が出た頃、日本ではまだ武士が刀を差し、ちょんまげを結っていたと考えると、何か感慨がありますね。

本を売る
 我が家には21畳分の広さの地下があり、ここが書庫兼仕事部屋になっていることは、過去にいろんなところで何度も書いてきた。いつもされる「一体、何冊ぐらい本をお持ちなんですか」という愚問も飽きた。3万冊とは答えているが、それがどれだけの量か、こういう質問を平気でできる人には分かるまい。じつは、私も分かっていない。
 とにかく、床にあふれだして積みあがった本を、もう本当になんとかしないと仕事に支障が出始めている。小まめに処分してきたつもりだが、買うスピードの量がいつも凌駕してしまう。ああ、こんなこと書くのもイヤなんだ。やめます。


 今回、東京「盛林堂書房」に買い取りに来てもらった(過去に何度かお願いしている)のは、パソコンの導入で、デスク周りを整理する必要ができたから。金属のラックの上に、もうずいぶん長い間、視聴せず放置したブラウン管の大型テレビがある。これをどけないと整理が進まない。ところが、階段には腰の高さぐらいまで本が積み上がり、とうてい図体がでかく重いテレビを移動させるのは無理みたい。
 そこで、本棚代わりに積み上げている階段の本を、撤去することにした。「撤去」が第一、である。だから、仔細に点検して「これを残そう、これも必要」なんてやっていたら、ことは進まない。階段の本に、いかなる必要な本が混ざっていようと、なかったことにして目をつぶって売ることに決めた。こういう処分の仕方は初めてだ。
 盛林堂さんが手慣れた段取りで、階段の本をつぎつぎと重ねてナイロンひもで縛っていく。縛られた本を私が受け取って、1階の駐車場に近い床に積み上げていく。その際、縛られた本を見れば、「あ、これはダメ。必要だから抜いておこう」と動揺する。するに決まっている。だから、目をつぶるようにして運び出した。
 次回も早いうちに来てもらって、また同量程度を同じやりかたで処分したい。とにかく蔵書をもっと活用できる状態まで減らしたい。一万五千冊ぐらいが適量ではないだろうか。たぶん、後になって売ったことを後悔する本が出てくるだろうが、そのときは図書館で借りるなり、また買えばいいのだ。まあ、ちょっと負け惜しみも入っております。


対談集、座談集
 あんまり意識したことがなかったけど、蔵書の整理をしていて気づいたのは、私がずいぶん対談、座談集の類をたくさん持っているな、ということだ。本人が自分の手で書いたものしか読まない人もあろうから、これは私の読書における一つの傾向、と言えるかもしれない。
 何より、気楽な感じがいい。文章で書くのとはまた違う、リラックスした雰囲気から、思わぬ本音やエピソードが出てくることもある。それに、作家以外の俳優や歌手などは、ちゃんと自分で筆を握って書いた著作は少ないわけだから、へえそうなんだと感心する場合がよくある。肉声に近い発言で「声」が聞こえそう、というのも書いた文章とは印象が違ってきて親和性が増す。
 2019年に亡くなった和田誠は、本職のイラストレーター以外に、装幀やジャケット、ポスターデザインほか、歌も作るし、映画監督までやってのけた才人だ。そこに付け加えておきたいのが、インタビューの名手である。「話の特集」誌上で連載された対談が『インタビューまたは対談』というタイトルで本になっている。結局、何冊出たか。知りたい人は自分で調べてください。
 いま手元にあるのが巻数のついていない最初の一冊。1985年に話の特集から刊行。田中裕子、桑田佳祐、山藤章二、桃井かおり、林真理子、森田芳光、立川談志など12名分を収録。それぞれの初出はないが、「『話の特集』(八三年五月号から八五年四月号)より収録」とある。最初が田中裕子。私はこの女優さん、好きです。これほど目が小さくて大成した人は珍しい。近眼らしいですが(対談に「〇・一あるかないかくらいです。検査だと、一番上がわかるくらいじゃないですか。覚えてるから(笑)、ほんとはわからないのかもしれない」とある)、八文字眉と、あの小さな目でぼーっと見つめられると、たいていの男はイチコロであります。
 この対談で「へえ」と思ったのは、田中裕子が大阪出身、ということ。じつは和田誠も大阪だ。ちょっとイメージと違うでしょう。それで出身の話になる。こういう共通点が話のきっかけになる。和田が「阪和線の南田辺」に8歳まで。田中が中学2年になったばかりの頃まで「宝塚線の石橋駅」にいたという。どちらも大阪の中心部というより、ちょっとはずれた周縁部だ。
 私が、ここらあたりが対談の妙味だなあと思ったのは、たとえば田中の次の発言。「天王寺の地下鉄ってのは、くらーい印象がありますね(笑)」。これは和田が、幼かったから大阪の町のことをあんまり知らず「天王寺の動物園はよく覚えてるんだけど」に引っ張られて出てきた発言だ。1955年4月29日生まれ。私と2つしか違わない。たしかに、天王寺に限らず、大阪の地下鉄の駅構内やホームは全体に少し暗かったのではないか。これがもし、聞き手が和田誠ではなくて、大阪出身者ではなかったとしたら、まず出なかったはず。
 この対談が1983年に行われたらしいと分かるのは、田中が出演し評判となった映画『天城越え』の話をしているからだ。また、共演した沢田研二と結ばれるきっかけとなった『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』の話題も。これが1982年の12月末の公開。和田が「裕子さんはすごく良かったね」とほめたのに対し、「そうですか」とややためらいがちに受け止め、「しんどかったです」と答えている。そのポイントは「普通の女の子の役っていうのは非常に難しいわけだけど、山田さんが思ってらっしゃる普通と、私が思ってる普通が違うということがあります」という点にある。これ、分かるでしょう? 説明なんかしませんよ。田中裕子が非常にクレバーで、個性的な女優さんだいうことがこれで分かる。
 もう少し、対談集の話をしようかと思ったけど、今回はまあいいです。これまで。
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)
『これからはソファーに寝ころんで 』(春陽堂書店)岡崎武志・著
旅先で起こった出来事、日常のささやかな発見。人生の寄り道・迷い道で心に刻んだことを、著者自身のイラストや写真とともにエッセイでつづる。それは、思わず「自分も出かけたくなる」「追体験したくなる」小さな旅のガイドにも。
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この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。