【第15回】新しい「止まり木」見つけた

 その日、新連載の原稿と格闘していたぼくは、あまりの筆の重さに嫌気がさして執筆部屋から逃げ出しました。
 外は、雲ひとつない、完璧な冬晴れ。
 時刻は午後2時すぎ。
 どうせなら思い切り気分転換をしたかったので、いつもは散歩道として選ばない、車通りの多い道をあえて歩いてみました。
 すると、ちょっと見慣れない看板が目に留まりました。
 ん? こんなところに、喫茶店?
 と、首を傾げかけたとき、ぼくはハッとしました。
 駅前で人気を博している「屋台のコーヒースタンド」のマスターが、最近、新たに店舗を出したという噂を思い出したのです。
 よし、行ってみるか──。
 ぼくは古いアパートのような建物の階段を上がり、入り口のドアを開けて中へと入りました。
「いらっしゃいませ」
 という女性店員の声に、軽く会釈で応えながら、ざっと店内を見渡した刹那、確信したのです。この日の幸運を。
 見つけちゃった──。
 ぼくは胸裏でそうつぶやいていました。
 ウッディーで落ち着いた空間。十数人も入れば満員という手頃なサイズ感。そして、3人の先客たちが、みな静かに本を読んでいるという穏やかな空気感にも心惹かれました。


店内には心地いい音楽が流れています

 さっそくカウンター席に座り、深入りを注文。
 目の前で丁寧にドリップしてくれたコーヒーの味は……。
 うん、街の噂どおり。
 苦味に角がなくて、とても美味しい。
 つい先日、行きつけだった喫茶店のマスターの訃報を受けて、肩を落としたばかりだったので、ぼくは何だかちょっぴり救われたような気分にもなりました。
 せっかくカウンターに座ったので、マスターと女性店員とあれこれおしゃべり。
 ロン毛にヒゲ(ときどきシルクハットも)という味のあるマスターは、かつて全国各地を放浪しながら道端で屋台のコーヒースタンドを開いてきたという、じつにおもしろい経歴の持ち主でした。
 まさに、放浪系バリスタ。
 なかなか、こんな人はいないですよね? 野宿放浪者だったぼくとしては、親近感が止まりません。
 女性店員もまたチャーミングな人で、かつての職業は、なんと巫女さん──からの、大学職員。しかも、渓流魚アマゴを手づかみしたり、マニュアルの軽トラックをバンバン運転できたりと、意外性に溢れているのが最高です。
 そして何を隠そう、彼女、ぼくの本の読者だったのです。
 はい、行きつけ店に決定!(笑)

常連客に愛されている魅力的なお二人

 マスターいわく、「夜はバーになって、深夜2時まで営業しています」とのこと。
 酒飲みの地元民としては、ちょいと一杯引っ掛けて、さくっと歩いて自宅に帰れるのが助かります。
 というわけで、この日は、ぼくのお散歩圏内に、新たな「止まり木」ができた記念日となったのでした。
 たまには、普段と違う道を歩いてみるものですね。
(写真は全て筆者撮影)

この記事を書いた人
森沢 明夫(もりさわ・あきお)
1969年、千葉県生まれ。小説家。早稲田大学卒業。
吉永小百合主演で映画化された「虹の岬の喫茶店」をはじめ、有村架純主演の「夏美のホタル」、高倉健主演の「あなたへ」など、映画やドラマとして話題になったベストセラーが多い。また、エッセイ、絵本、作詞なども手掛けている。近刊には「エミリの小さな包丁」「かたつむりがやってくる」「水曜日の手紙」「雨上がりの川」などがある。