きれいな世界ってぼくわかんない

こないだたまたまヒッチコックの映画を観たよって言ってきたひとがいて、「いや、あの、ぼく、ヒッチコックのあの映画が好きなんです、ジェームズ・ステュアートとドリス・デイの善良な夫婦が誘拐事件に巻き込まれるんだけれど、その日たまたま夫婦に招待されたゆうじんたちがいて、でも夫婦は誘拐事件に取りかかりきりで、ゆうじんたちをずっとじぶんたちの部屋で待たせておく、誘拐事件は国を巻き込んでどんどん大きな事件に発展していく、そのあいだ、ゆうじんたちはなんにもしらないまま待ちくたびれて、ひとりずつ、ねむってしまう、心地いい大きな椅子にすわったまま、ふかくねむりこむ、そして映画の最後に『お待たせしました!』と夫婦が部屋に飛び込んで帰ってくる、なんにもしらないゆうじんたちは大きく伸びをする、夢を終えて。映画が終わる。なんどもなんども終わりをみたよ。すきでね。でもね、タイトルがどうしても覚えられない、いまだに。いろんなひとにその話なんどもするし、その映画なんどもみたんだけれど。『間違えられた男』じゃないんだ。たぶん。そう、きっと。ぜんぜんなんにも覚えられないんだ、大事なこと。ジェームズ・ステュアートみたいないいにんげんになりたかったな」「ふーん。わたしは『鳥』が好き」

「人生で一番楽しいことってなんだろ」と言おうと思ったけれど、そのあと、すこし黙ってしまう。


『バームクーヘンでわたしは眠った もともとの川柳日記』(春陽堂書店)柳本々々(句と文)・安福 望(イラスト)
2018年5月から1年間、毎日更新した連載『今日のもともと予報 ことばの風吹く』の中から、104句を厳選。
ソフトカバーつきのコデックス装で、本が開きやすく見開きのイラストページも堪能できます!
この記事を書いた人
yagimotoyasufuku
柳本々々(やぎもと・もともと)
1982年、新潟県生まれ 川柳作家 第57回現代詩手帖賞受賞
安福 望(やすふく・のぞみ)
1981年、兵庫県生まれ イラストレーター