【第16回】「古代」妄想ができる道

 約7000年前(縄文海進の頃)、ぼくの住んでいる東京湾奥の船橋市は「海辺の台地」だったそうで、それゆえ、あちこちで遺跡や貝塚が見つかっています。いまでもマンションなどを建てるために地面を掘り返すと、縄文時代やら弥生時代やらの土器がざくざく出土するらしいのです。
 現在、「買って住みたい街ランキング」の上位に名を連ねている我が街は、きっと太古の昔も住みやすい土地だったんでしょうね。
 ところで、小学生の頃のぼくはスポーツ大好き少年だったので、野球選手かバスケットボール選手に憧れていたのですが、一方では「考古学者になりたいなぁ……」なんて思っていました。
 恐竜の化石を発掘したり、縄文遺跡を研究したりするような、ロマンチックな仕事に憧れていたのです。なので、近所で土器が見つかる場所があると聞けば、すかさず移植ゴテ(片手で持つ小型のシャベル)を自転車のカゴに放り込んで現場に駆けつけ、ヤドカリみたいに地面を這い回りながら、せっせと土器を収集するような少年でした。
 さて、最近、ぼくが好んで歩いている散歩道の傍にも、かつて弥生式土器をたくさん掘り集めた場所があります。小学生の頃、そこはまだ空き地だったのですが、現在は梅の木が並ぶ駐車場になってしまい、残念ながら掘ることはできません。

小学生の頃、弥生式土器を集めた駐車場

 先日、その駐車場を懐古的な目で眺めながら散歩していたとき、ぼくは、ふとあることをおもいました。
 このあたりは「どこを掘っても土器が出てくる」ということは、かつてこの地に住んでいた人たちの数千年分の遺体が累々と足元に眠っているのではなかろうか──。
 もちろん、ほとんどの遺体は微生物に分解されたりして、跡形も無くなっているとは思いますけど。
 いずれにせよ、縄文人、弥生人たちが暮らしていた土地の上を、いま、ぼくは散歩しているわけです。
 この場所で、彼らはどんな暮らしをしていたのかな……、なんて妄想しながら歩いていると、不思議といま目の前に展開している現代の風景までが、なんとなく違って見えてきます。
 以前、ぼくは「青森三部作」の〆の作品として「ライアの祈り」を上梓しました。縄文時代のラブストーリーと現代のラブストーリーが不思議なリンクを見せるファンタジー小説です。
 その作品に少しでもリアリティーを与えたくて、当時のぼくは縄文時代についてあれこれ勉強していたのですが、そのとき、出会い頭の事故のように「人間の愚かさの根源」に気付かされた気がしました。
 簡単に言うと、こういうことです。
 縄文時代は、人々が争った形跡がほとんど見られないほど平和な時代でしたが、弥生時代になるとこれが激変して、いきなり人々は殺し合うようになります。つまり、稲作が入ってきたことで、人々は土地と水の利権を奪い合い、「地面に線を引いた」のです。
 ここからここまでは、俺の土地、俺の水だからな──。
 分け合い、与え合っていた縄文時代から、奪い合い、殺し合う弥生時代へ。人間の精神は、そこでコロリと変わってしまったのです。
 そういう意味では、いまのぼくらって、弥生時代からちっとも進歩していませんよね。だって、いまだに地球上のどこかに線を引いては、何かを奪い合って戦争をしているのですから。
 人間ってのは、つくづく愚かな生き物です。
 それでも、いま、ぼくがてくてく散歩している、まさにこの場所で、かつて縄文人や弥生人が恋をしたり、狩りをしたり、友情を育んだり、泣いたり、笑ったり、散歩をしたりしていたのだと思うと、やっぱり憎めないというか、愛すべき存在に思えてくるんですよね。
 しかも、そんなことを妄想しながら歩いていると、ふと見上げた空の青さまでもがポエティックに見えてきます。
 これから数千年後──、いま、ぼくが歩いているこの土地の上を、誰かがのんびり幸せそうに散歩していたらいいなぁ……、なんて思いながら歩いていたら、足元の土のなかから「俺も同じことを考えていたよ」なんて声が聞こえてきそうな気がしました。
(写真は全て筆者撮影)

この記事を書いた人
森沢 明夫(もりさわ・あきお)
1969年、千葉県生まれ。小説家。早稲田大学卒業。
吉永小百合主演で映画化された「虹の岬の喫茶店」をはじめ、有村架純主演の「夏美のホタル」、高倉健主演の「あなたへ」など、映画やドラマとして話題になったベストセラーが多い。また、エッセイ、絵本、作詞なども手掛けている。近刊には「エミリの小さな包丁」「かたつむりがやってくる」「水曜日の手紙」「雨上がりの川」などがある。