志賀直哉の見た夏目さん
──漱石の18世紀英文学講義と『文学評論』

東洋大学専任講師  服部 徹也

 前回の記事末尾で触れたとおり、『草枕』を書き終えた漱石はさっそく講義用の原稿を作っていた。当時の大学は9月に学年が始まる。1906年9月27日に東京帝国大学文科大学英文学科で、「18世紀英文学」講義の2年目の初日が、アレキサンダー・ポープ論の途中から始まった。今日の常識からすれば意外なことだが、入学したての1年生にとっては突然途中から講義が始まったことになる。その新入生のうちには、志賀直哉ら、のちに白樺派の同人となる面々がいた。1909年に『文学評論』(春陽堂)として刊行されることになるこの講義は、志賀直哉という一学生の目にどのように映っていたのだろうか。

講義では夏目さんが最も面白い
 さっそくだが、1通の書簡を読むところから始めよう。当時23歳、大学に入って3カ月になる志賀直哉が友人有島生馬いくまに宛てた書簡だ。
 大学は下らない、ただ嬉しいのは自由な事だ、学習院から行つた身にはそれを一層深く感ずる、講義では夏目さんが最も面白い、又一番よく解かる。一週間に六時間あつて、半分づゝ英国十八世紀文学と、マアーチヤントofベニス〔シェイクスピア『ヴェニスの商人』〕とをやつてる、
 先生は不平を滑稽で包むだやうな人だ。従つて他の大学の先生等とは合はぬらしい、殊に上田びん氏などゝは合はぬやうだ、時々人の悪口が出る、それもあから様にではないが(略)。
〔島崎〕藤村氏といへば、夏目さんの草枕と共に、此頃益々ますます議論がはげしくなつたやうだ。文学雑誌は破戒と草枕とにいて毎号云つてないと云ふ事はない位だ
(1906年11月21日 有島壬生馬(生馬)宛志賀直哉書簡/『志賀直哉全集』第17巻、岩波書店、2000)
 志賀は漱石作品の愛読者であり、講義にも関心を抱いていた。一方、中略した箇所には上田敏(英文学)、芳賀矢一やいち(国文学)、大塚保治やすじ(美学)、藤岡勝二(言語学)、元良もとら勇次郎(心理学)らの講義を「下らない講義」「下らないといふのは解らないといふ意味もあるだらうが、解かつたにしろ確かに面白くはない」と言い、授業はサボって他人のノートを写して単位だけは取るつもりだ、そもそも「学士になりたいとか博士になりたいとか思つて勉強するのは、随分可笑おかしな話ではないか、(略)学士むきに勉強するとは、自分の好きな自分の利益になる勉強も暫く止めて、下らない嫌ひな学問を我慢してやると云ふ事だ、そんな事をしてまで得た学位は何になるかと云へば中学校の教師になる時月給が四五円ちがうと云ふに過ぎない、(略)だから僕は、しもこれから自分のしたい学問を専心に勉強が出来るやうになつたら威張つて学士にはなるまいと思つてる」と、大学制度に対する疑いの念を吐露している。
 志賀の手帳にはもっと踏み込んだ記述もある。「今の自分に云はすれば、大学は、三四年の徴兵ヨケより、大したものではない」「ただし夏目さんの講義だけは聞きたい、それも試験でもすると云へばいやだが」(『志賀直哉全集』補巻5、岩波書店、2002)。

図1 明治40年4月14日撮影。左より武者小路実篤、正親町公和(おおぎまちきんかず)、木下利玄(りげん)、志賀直哉。
(『群像 日本の作家9 志賀直哉』小学館、1991年より)


ノートを取って覚えて試験
 興味深いことに、その「夏目さん」もまた学生のころ、親友正岡子規に同じような思いを吐露していた。
 嗚呼ああ狂なるかな狂なるかな僕狂にくみせん僕既に狂なるあたはず甘んじて蓄音器となりきた廿にじゅう二日午前九時より文科大学哲学教場に於て団十郎の仮色こわいろおつと陳腐漢の囈語げいごを吐き出さんとす蓄音器となる事今が始めてにあらず又これが終りにてもあるまじけれど五尺にあまる大丈夫が情けなや何の果報ぞ自ら好んでかゝる器械となりはてたる事よ
(1891年4月20日正岡子規宛漱石書簡/(『定本 漱石全集』22巻、岩波書店、2019)
 子規の文学的才能に衝撃を受けたと語る書簡のなかで、在りし日の夏目金之助は試験を前にした自分を、覚えたことをそのまま吐き出す「蓄音器」になぞらえて戯画化しているわけだ。
 そんな学生も、教員になればノートを取らせ、試験をするようになる。中勘助の回想を引いておこう。志賀が受けたのより1年前の授業風景だ。
〔夏目〕先生の講義は十八世紀の英文学の評論とてむぺすと・・・・・〔シェイクスピアの『あらし』〕であつた。前者の最初の部分は評論をする時の態度といふやうなことであつた。私は筆記の必要を感じなかつたので、しばしば先生のすぐ前に席を占めながらつひぞぺんをとつたことがなかつた。先生は一寸ちょっとそれを気にするやうにみえた。そしてとう/\私と名ざしてはいはなかつたが、「書かなくちやいけない」といふ意味のことをいつた。
(中勘助「漱石先生と私」/『定本 漱石全集』別巻、岩波書店、2018)。
 ノートを取って覚えて試験、単位を取って学士となる、それだけが学問だったのだろうか? それなら自分は一体なんのために青春を勉学に捧げてきたというのか? こうした学生たちの苦悩は『三四郎』(春陽堂、1909)に描かれる。
 そして学者としての苦悩は『道草』(岩波書店、1915)に描かれる。洋行帰りの学者健三は、23、4歳の青年に向かって、自分は学校と図書館という「牢獄」で青春時代を過ごしたと自嘲し、「学問ばかりして死んでしまつても人間はつまらないね」という。その言葉の意味は若い血と輝いた眼をもった青年には通じないのだった。

図2 受講ノートの一例(漱石の「文学論」講義の第一部「形式論」 を岸重次が筆記したもの。金沢大学附属図書館岸文庫蔵)


漱石の講義から湧く創作意欲
「18世紀英文学」講義は1905年9月から1907年3月21日まで、2年弱にわたって行なわれた。なぜ2年間ちょうどにならないかというと、当時の学年は9月にはじまり7月に終わるはずのところ、漱石が3月に大学を辞めたからだ。この講義は、序論として文芸に対し科学的態度をもって批評的鑑賞を行なうべきことを述べ(上記の中勘助の回想にいう「評論をする時の態度」とはこの部分を指している)、芸術や文学が生まれてくる社会状況に目配りして英国18世紀を概説し、ジョゼフ・アディソン、リチャード・スティール、ジョナサン・スウィフト、アレキサンダー・ポープ、ダニエル・デフォーらについて、評伝や作品解説を織り交ぜて論じていく。
 出版された『文学評論』(春陽堂、1909)は、『文学論』(大倉書店、1907)よりも読みやすい本になった。文体面では堅苦しい漢文調の表現が少なくなり、ときにユーモアがのぞく。英文学作品については、原文引用のあとに日本語訳がついた。

図3 『文学評論』のカバー(左)と表紙(右)。カバーは天・地・小口を覆う「耳付きカバー」だった(春陽堂、1909年3月。秀明大学『夏目漱石展』図録より)

『文学論』が芥川龍之介に与えた影響については別の連載(*1)で触れたが 、最後に志賀が漱石の講義から受けた刺激について紹介しておこう。
 学生時代の志賀の手帳からは、「一月計ひとつきばかりではあるが夏目さんの話を聞いて文章などにも陳腐な事があると妙に気になつて来たのは、ありがたい、何か別に一寸したものを書いて見たいな、(1906年10月21日/『志賀直哉全集』第17巻、岩波書店、2000)という風に、彼が漱石の講義から創作への意欲をかき立てられていたことがわかる。

図4 『文学評論』原稿(『定本漱石全集』15巻より)


甘い夢の余韻のような文体をさがして
 とりわけ興味深いのは、『オセロー』講義中の漱石の発言を「Othelloは読むだあとの感じが悪い、小説は美を対象とすべき〔であるの〕に人の弱点(好奇心)に乗ずるのは悪い」などと手帳に書きとめたあと、志賀が次のように思索を展開していることだ。
○昨日夏目さんが小説の読むだ後の感じといふ事を切りに云はれたが
 成程なるほど美を対象とする以上は読むだあと、読者に不快な感じを残すやうなものは感心しない。
 所で自分は考へた、どうしたら最もいゝ感じを読者に与へるだらう、
 自分の経験で、面白い夢を見てそれをヤヽ明確はっきり覚えてる時程何んとなく愉快な事はないその翌日は終日、所謂いわゆるいゝ感じでもつて居られる、
 そのコツをうまく応用すれば必ず、読者にいゝ感じを残すといふ事は出来やう、これはおおいに考ふべき問題だ、
 一寸夢から推理して考へると、何故にいゝ夢がそれ程スヰートな感であるかといふと、あり得べからざるスヰートな事が(自分自身としては、)(他人即ち小説中の人物ならいざ知らず)自分に起つた夢で、しかも覚めたちは、それにともなう(如何なるSweetな事でも必ずいやな事のともなうも〔の〕だが)いやな事が実でないといふ事が明らかで、しかも尚其なおその夢が何時あつた事実のやうな気もするといふ所が何んとなくスヰートなのではあるまいか、
 だから、読者自身を主人公にして書くといふ文体にしたらば、此感じを表はす事が全然出来ない事ではあるまいと思ふ、しかしそんな文章は如何どうして書けるだらう? 未だかつてない文体だ、
読む人を主人公とする──随分ずいぶん無理な注文だが、どうか研究したら出来さうなものだ
(1906年10月10日/『志賀直哉全集』第17巻、岩波書店、2000)
 読者自身を主人公にする志賀作品といえば、「君は覚えているかしら、僕が山田のうちに書生をしていた事は。君が国の中学にいる頃だ」という書き出しから始まる「佐々木の場合」(*2)(『黒潮』1917・6)が思い浮かぶ。作品は大部分が佐々木という男の昔語りからなる。作品末尾は、「君」と呼ばれていた聞き手の男が佐々木を分析し、「自分は何と云っていいか解らなかった」こと、その理由を述べて終わる。
「亡き夏目先生に捧ぐ」という同作冒頭の献辞に注目し、作品に描かれている佐々木の道義に反する逃亡と「遅すぎた贖罪しょくざい」が、「自身の『芸術上の立場』を理由に、〔『朝日新聞』に小説を連載するという漱石との〕先からの約束を破った志賀自身」の「漱石の死後になってようやく小説を発表し始める」行為に重なり、それが聞き手の男によって罰される構造になっているとする解釈もある(下岡友加2006)。上記の手帳の日付と作品とは10年以上隔たっているから、この2つを無理につなげて解釈する必要はない。しかし、この作品が残す余韻に浸りながら、かつて漱石に刺激されたインスピレーションを志賀が懐かしく思い出していたのかもしれない──と勝手な想像をめぐらせてみるのも面白い。
【註】
*1 服部徹也「夏目漱石はどんな授業をしたのか?──受講ノートを探す旅」(新曜社のWebマガジン クラルス)第1回参照 https://clarus.shin-yo-sha.co.jp/categories/823
*2 「佐々木の場合」の引用は『和解・小僧の神様 ほか十三編』(講談社文庫、1972)によった。
【参考文献】
下岡友加「志賀直哉『佐々木の場合』──漱石への献辞の意味」(『近代文学試論』44号、広島大学近代文学研究会、2006)http://doi.org/10.15027/17287
調布市武者小路実篤記念館「平成22年度春の特別展 白樺派と漱石──『白樺』創刊100年」(2010)
この記事を書いた人
服部 徹也(はっとり・てつや)
1986年、東京生まれ。東洋大学専任講師。著書に『はじまりの漱石──『文学論』と初期創作の生成』(新曜社)、共著に西田谷洋編『文学研究から現代日本の批評を考える──批評・小説・ポップカルチャーをめぐって』(ひつじ書房)など。