【第27回】


あの日流れた「赤とんぼ」の歌
 新型コロナウイルスの騒動がここまでひどくならない前の春の某日。兵庫県たつの市龍野へ旅してきた。京都に仕事へ出かけたついでに、一日、足を伸ばしたのである。京都駅からJR新快速で姫路まで約1時間半。そこから姫新線というローカル線に乗り換える。なぜ、また? と言われると、ここが「男はつらいよ 夕焼け小焼け」の舞台となったからだ。太地喜和子たいちきわこがマドンナとなったこの回は、シリーズ屈指の傑作と評判が高い。私も好きで何度か見ているが、そのたびに古びた瓦屋根の家並みと路地が続く龍野へ行きたいなあと思っていた。今回は念願がかなったわけである。
 ただし「龍野」散歩については、別の原稿に書いた。ここは話の「まくら」に使う。「男はつらいよ」の副題に「夕焼け小焼け」とある通り、この揖保川いぼがわと裏山に挟まれた小さな街道町は、童謡「赤とんぼ」の作者で詩人の三木露風が生まれ育った土地なのだ。赤とんぼの像が「本竜野駅」ホームに建っていた。
「赤とんぼ」(正式の表題は「赤蜻蛉」)
夕焼、小焼の/赤とんぼ 負われて見たのは/いつの日か。
山の畑の/桑の実を 小籠こかごに摘んだは/まぼろしか。
十五でねえやは/嫁に行き お里のたよりも/絶えはてた。
夕やけ小やけの/赤とんぼ とまっているよ/竿の先。
 おそらく日本人なら誰でも知る曲で、原詩は1921年に発表され(多少、歌詞が違う)、27年に山田耕筰により曲がつけられた。しかし、この曲があまねく大衆に浸透していくには時間がかかった。おそらく1950年代頃より、広く歌われるようになったのだと思われる(あくまで推測ですよ。間違っていたらごめんなさい)。
 その一つの証拠が、山住正己やまずみまさみ『子どもの歌を語る 唱歌と童謡』(岩波新書)に見える。明治以降、学校教育で教えられた唱歌や童謡について時代ごとに分析をしているのだが、「序にかえて」として冒頭に置かれたのが「『赤とんぼ』あれこれ」という考察である。ここで紹介されているエピソードがある。それは東京西部の立川市で繰り広げられた「砂川闘争」について、である。戦後に駐屯した米軍の立川基地が、飛行場の拡張に伴い、北部の農地を摂取すると発表。これに地元農民が反対して、支援する反米基地運動の労働者や学生が加わり、1955年から1960年代まで闘争が続いた。56年秋には、業を煮やした国側が警官を動員し、反対運動を続ける農民や学生たちと衝突、流血騒ぎとなった。
 その時のことを現場にいた作家の木下順二が書いている。夕闇迫るなか、機動隊とスクラムを組む農民たちがもみ合う中、こんなことが起きたのである。
「その時、突然、全学連の、それはおそらく基地を背にして幅広くスクラムの組まれたあたりから、群衆の叫喚を突きぬけて高らかに歌声が起った。/それは『赤トンボ』であった。『赤トンボ』は、ゆっくりと澄んだメロディを、雨空の中に立ち昇らせた」
 同じことを砂川闘争裁判で農民側に立った弁護士の新井あきらも書いているという。
「殺気だった機動隊の隊列とふみにじられたいも畑の上で対峙しながら、砂川の婦人や学生たちのスクラムが、荒れすさんだ機動隊員の心に訴えかけようとして、『夕やけこやけの赤とんぼ、負われて……』と、童謡を静かに、しかし心をこめて合唱したというエピソードは、この闘争にかかわった多くの人びとの胸に熱く灼きつけられた思い出である」
 機動隊員だって、故郷を持つ地方出身者が多くいただろう。家に帰れば彼を待つ父母や祖父母、そして幼い頃遊んだ山川がある。その父母や祖父母の年齢にあたる農民たちを踏み散らかし、横暴な国家権力の先兵となり、土地を奪おうとしている。その心象に訴えかけるためには、「我々は~、断固としてえ~」といった観念語だらけの一本調子ではダメで、故郷を強く思う「赤とんぼ」がぴったりだったのである。それが自然発生的に生まれて歌われたというのがすばらしい。
 じつは、「赤とんぼ」を巡る同じような話が、ちょっと後にもあるのだ。
 永六輔(聞き手・矢崎泰久)『上を向いて歌おう 昭和歌謡の自分史』(飛鳥新社)で語られている。以下、抜粋して紹介する。
 1960年安保闘争の年、永は何をしていたかと矢崎が聞く。永は日本テレビのバラエティ番組「光子の窓」の放送作家。売れっ子である。国会議事堂近くのアパートに部屋を借り、放送原稿を書いていた。窓からは、国会に突入するデモ隊が見える。警察隊と衝突し、血を流す学生もいる。かたや、テレビ台本を書いている永六輔。いたたまれなくなった永は、外へ飛び出し、デモに参加した。警官に追われ、右翼から殴られた。あたりは騒然としていた。そんな中、クレイジー・キャッツの面々が、デモと出くわしていた。
 彼らは、流血の惨事の中、静かに「赤とんぼ」の歌をうたいだしたという。永はそれを聴いて感動した。「砂川闘争」での例といい、この血なまぐさい騒然たる政治上の衝突と、いかにも日本的風景を歌った叙情的な童謡との組み合わせがまことに興味深い。
 あと、もう一つ。「赤とんぼ」と言えば、今井正監督の映画『ここに泉あり』(1955年)を思い出さないわけにはいかない。これは初の市民オーケストラとなる「群馬交響楽団」の創設から苦心惨憺さんたんたる存続を映画化した作品。主演は小林桂樹、岸恵子、岡田英次など。2月12日公開。監督は今井正。バックボーンのない楽団の経営はつねに苦しく、学校や施設訪問や、移動公演などで何とか食いつないでいる。団員の給料は遅配し、チンドン屋のアルバイトをする始末。そしてついに力尽き、これを最後にしようと、山の小学校へ少人数での演奏会に出かける。電車、バスを乗り継ぎ、最後は楽器を抱えて峠道を歩く。おそらく、生の演奏を聴くのはこれが最初で最後という子どもたちを前に演奏を終え、また峠道を戻っていく団員たち。彼らを見送る子どもたちが、感謝を込めて合唱するのが「赤とんぼ」であった。
きわめて感動的なシーンで、この映画により「赤とんぼ」がより広く知れ渡ることになった、という証言もある。NHK「みんなのうた」で取り上げられたのは1965年。これらを考え合わせると、どうやら50~60年代にかけて普及していったようだ。
 ところで再び『子どもの歌を語る』に戻ると、この本で指摘されているのだが、小学校の音楽の教科書では、3番の歌詞がはずされたというのである。すなわち「十五で姐やは/嫁に行き お里のたよりも/絶えはてた」のパートである。そのことを著者は憤って告発している。つまり3番がなければ、1番の「負われて見たのは/いつの日か」を、音だけで想像すると「負われて」を「追われて」と児童は受け取り、「幼いころの楽しい思い出をうたった歌」と思ってしまうだろう。
 ところが、この歌はおそらく、幼い「私」(少年、少女)をずっと負ぶって面倒を見てくれた「姐や」が嫁に行ってしまい、その後音信も途絶えたという悲しみが郷愁とあいまって表現されているところに本質がある。それを教育上の配慮のため、わざわざ触れずに教える。著者は「文化的犯罪といっても過言ではない」とまで言う。
 では、なぜ15歳の「姐や」が嫁に行くことが教育現場から忌避されたか。当時の民法(第731号)では、女子の婚姻開始年齢は「16歳」と定められていたからである。民法違反というわけだ。いや、これは冗談ですよ。本気にしてもらったら困る。しかし、ませた子どもが、教師に「15歳でお嫁に行くって、おかしくないですか?」と質問された時、困るかもしれない。あるいは「姐や」という存在の説明が難しい。「お姉さんのこと?」と、現代の子どもなら思ってしまうだろう。
 かつて中流以上の家庭では、家事の補助として(あるいは全面的にまかせて)「家政婦」や「お手伝いさん」を同居させていた。斡旋所を通じて雇うこともあるし、夫や妻の故郷にいる親戚(たいてい子だくさん)の娘を預かるというケースもあったろう。彼女たちは子守も担当した。それが「姐や」と呼ばれたのである。
 太宰治論で有名な文芸評論家の奥野健男たけおに『ねえやが消えて 演劇的家庭論』(河出書房新社)という異色の著書がある。近現代文学に登場する「ねえや(姐や)」という存在が、いかに大きく機能したかを論じている。それが失われた今、その存在を知らずして、文学作品がはたしてちゃんと理解できるかどうか。我々の世代では、1967年から68年にかけて放映された九重ここのえ佑三子ゆみこ主演のドラマ『コメットさん』が、ここで言う「ねえや」のイメージに近いかもしれない。
 奥野は言う。「ねえやのねえには姉さんという身内に近い親愛の意味がこめられていた。ねえやは当時の子供にとって今日のお手伝いさんとか、家政婦とか、ベビイ・シッターとかとは全く違う存在であった。もう“ねえや”という独特の甘酸っぱい懐かしい感じは今の子供には想像外の存在だろう」
 そして次に引用しているのが「赤とんぼ」の歌詞であった。
ちなみに、「本竜野」駅ホームの「赤とんぼ」像は、ちゃんと「姐や」が幼子を負ぶった姿でありました。

(写真は全て筆者撮影、作)
『明日咲く言葉の種をまこう──心を耕す名言100』(春陽堂書店)岡崎武志・著
編集者、ライター経験を経て、書評家、コラムニストとして活躍する岡崎武志。 小説、エッセイ、詩、漫画、映画、ドラマ、墓碑銘に至るまで、自らが書き留めた、とっておきの名言、名ゼリフを選りすぐって読者にお届け。「名言」の背景やエピソードから著者の経験も垣間見え、オカタケエッセイとしても、読書や芸術鑑賞の案内としても楽しめる1冊。
この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。