【第19回】まあるい春風に誘われて

 執筆部屋の窓を開け放っていたら、レースのカーテンがふわっと揺れました。
 その風が、あまりにも丸くてやわらかかったので、ぼくは思わず椅子から立ち上がりました。
 この風を浴びて、散歩をせずにいられるものか。
 美しい四季のある国って、やっぱりいいですね。
 季節に誘われて何かをしたくなるって、ぼくら日本人の特権なのかも知れません。
 靴を履いて外に出ると、庭の枝垂れ桜にハッとしました。
 釣り糸のように垂れ下がるいくつもの枝に、ぽつぽつと淡いピンク色が弾けていたからです。
 今年も、いよいよ咲きはじめたかぁ……。
 感慨深い思いで頭上を見上げると、桜の上に広がる空の明るさに、ぼくは少し目を細めました。
 思い切り伸びをして──、よし、歩こう。

庭の枝垂れ桜が咲きはじめました

 人が何かをしようとするときには、必ず何らかの「したくなるきっかけ」があるものです。例えば、醤油の焦げた匂いを嗅いだから、ご飯を食べたくなるとか、カフェに流れているジャズを聴いたから、音楽好きの友達に電話をしたくなるとか。
 今日、ぼくが散歩をしたくなったきっかけは「春」です。
 春のよく晴れた日は、世界がまるごとパステルカラーで塗られているので、その色彩は心に明るく映ります。
 歩き出してすぐ、足元にハナニラを見つけました。茎を折るとニラそっくりの匂いがすることから、この名前がつけられたそうですが、これを英語で言うとちょっと素敵です。
 スプリング・スター・フラワー。

本格的な春を告げてくれるハナニラ

 春に咲く星の形をした花、と呼ばれているのです。毎年、この花を見つけると「春爛漫」という言葉が脳裏に浮かびます。
 この「春爛漫」から、ぼくは春物の部屋着を買おうと思っていたことを思い出したのでした。で、さっそく近所の「しまむら」へ。そして、だぼっと着られる薄手の部屋着を購入しました。
 うん、安くていい物が買えたぞ──と、ほくほくした気分で店を出たぼくは、子供の頃によく通った線路沿いの路地を抜けて、幼稚園の前に出ました。ぼくが卒園した幼稚園です。
 その正門のすぐそばには、昔と変わらぬ小さな畑が広がっていて、ぼくの足は、自然とその畑の前で止まっていました。なぜなら、たくさんのチューリップが咲き誇っていたからです。
 そのカラフルさは、まるで北海道の富良野や美瑛の花畑のミニチュア版のようで、幼稚園の前に広がる畑としては、とてもふさわしいように思えました。

幼稚園の前に広がるチューリップ畑

 さて、チューリップ畑を過ぎたぼくは、ひとけのない路地へ。
 すると、葉桜になりかけたソメイヨシノの老木から、ひらり、ひらり、と花びらが舞い落ちてきました。
 嗚呼、この切なさよ……、なんて思いながら、さらに少しだけ歩いて、帰宅。
 ふたたびぼくは庭の枝垂れ桜の元へと舞い戻ってきました。
 見上げた枝垂れ桜は、まだ、咲きはじめ。
 満開になったら、この花の下でビールを飲もうと決めました。
 花から、花へ。
 今日は、ミツバチみたいな小さな散歩でした。
(写真は全て筆者撮影)

この記事を書いた人
森沢 明夫(もりさわ・あきお)
1969年、千葉県生まれ。小説家。早稲田大学卒業。
吉永小百合主演で映画化された「虹の岬の喫茶店」をはじめ、有村架純主演の「夏美のホタル」、高倉健主演の「あなたへ」など、映画やドラマとして話題になったベストセラーが多い。また、エッセイ、絵本、作詞なども手掛けている。近刊には「エミリの小さな包丁」「かたつむりがやってくる」「水曜日の手紙」「雨上がりの川」などがある。