南條 竹則

第1回 ショコラと鏡花と偏奇館【後編】

 甘いものを禁じられて随筆「砂糖」を書いた荷風だったが、幸い、その後禁は解かれた。
 ことの起こりは『断腸亭日乗』大正10年6月9日の記に見える──「中洲病院に往きて健康診断を乞ふ。尿中糖分多しといふ。現在の境遇にては日々飲食物の制限は実行しがたきところなり。憂愁禁ずべからず」。
「中洲病院」というのは、荷風のかかりつけだった大石医師の病院である。荷風は6月28日にふたたび同医師の診断を受ける。日記によると──「午後雨中大石君を訪ふ。尿中糖分全く去りしといふ。始めて安堵の思をなす」。
 そして2日後の6月30日──「此夜燈前筆をるに、たまたま興あり。小品文をつくる。題して砂糖といふ。」
 すなわち、あの悲痛な文章は病気が癒えてホッとした気分から生まれたのだ。あの愁嘆は余裕を持ってふり返る過去の感情であり、だからこそ美味しそうな作品に仕上がったのだろう。
 この随筆を読んで、ショコラという飲み物に興味をおぼえたのは、甘いものの好きな泉鏡花だった。
 彼が荷風に宛てた手紙がある。その中で鏡花は、春陽堂から荷風の新著が送られたことに礼を述べ、「偏奇館漫録は新小説に御掲載のころより再読あらたに三誦仕り候」云々と本を誉め、そのあとにこう書いている──
シヨコラのお話さもうまさうにつき、阿部さんにその話仕り候ところ早速一鑵持参の厚情に浴し候が、心得なきこととて加減を存せず、いちどきに三匙、これにじゆんずる砂糖を加へ、ひといきにあふりつけ申候ため、少からずもたれの気味は一笑。今日或人にその鑵にしるしたる外国語をよんでもらひ候へば、ココア一匙に砂糖一匙のよし。成程と存じ候。また御一笑。(句読点筆者。以下同様)
 鏡花はこの失敗談に続けて、親しげな口調でこう記している──
実は先日御懇意の中洲の大石さんをわづらはし申し候ぎ、これあり。診療ののち、佐賀町を向ふがしに見渡し候奥座敷にて一酌のみぎり、しきりにあなたのおうはさを申候当日、御高著を頂戴いたし候次第。すぐにおん礼申上ぐべき筈のところ、少々病気にてだらしなく延引、おわび申上居。
 これだけを見ると、両者はいかにも仲が良かったようだが、『断腸亭日乗』を読む限り、そう素直には受け取れない。
 荷風は森鷗外、幸田露伴、上田敏など一握りの先人を別として、容易に他人を認めなかった。鷗外や露伴のことはつねに「先生」と呼び、深い敬意を払っているが、『断腸亭日乗』を見ても、尾崎紅葉への言及には何となく悪意ないし軽侮けいぶの念が感じられる。紅葉の父親が幇間ほうかんをしていたことを長々と記すなど、その一例である。
 その弟子の鏡花に対しては、作家として一目置き、あからさまに悪くは言わないが、ライバル意識を抱いていたことは明らかだ。
 たとえば、『断腸亭日乗』昭和12年5月24日の記に、菅竹浦から来た手紙が引用してある。手紙の主は『濹東綺譚』を絶賛して関西方面での好評を伝え、ひるがえって、毎日新紙に連載された鏡花の作を「内容形式ともに、甚敷はなはだしく旧式に有之これあり、一般の気受きうけ不宜よろしからず、唯挿絵に興味を覚ゆる位に有之、終に其末尾も不完全のまま中止せられ候様に御座候」と酷評している。後人に読ませるために書いた日記に、こういうものを得々として引用するのだから、荷風の心根が察せられる。
 しかし、荷風は右の書簡を『知友書翰集』に入れているから、とりあえず鏡花は「知友」のうちに入っていたわけだ。難しい人である。
 ちなみに、この手紙は「十七日」と日付があるが、何月とは書いておらず、封筒も残っていないようだ。荷風自身は「泉鏡花氏書翰 大正十二年頃」と記しており、『鏡花全集』の編者は年次を大正11年8月17日と推定している。しかし、「偏奇館漫録」と「砂糖」が入っていることからして、鏡花が受け取った本は『麻布雑記』(大正13年)と思われる。
 試みに『断腸亭日乗』大正13年9月の記述を見ると、14日に春陽堂の社員が『麻布雑記』二千部の検印を請うているから、鏡花の手紙の年次はこの年の9月17日と推定すべきであろう。
 これはとうに研究家が指摘済みのことかもしれないけれど、一応ここに記しておく。

*文中、引用は『荷風全集』岩波書店による。但し、旧字を新字に改め、多少ルビを加えた。鏡花の手紙は『荷風全集』第29巻536-537頁にあり、『鏡花全集』別巻350-351ページに転載されている。


この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に小説『あくび猫』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)