文豪夏目漱石の死──『新小説』の漱石追悼特集号

東洋大学専任講師  服部 徹也

 1916年12月9日午後6時45分、漱石夏目金之助は永眠した。享年50。絶筆となった連載小説『明暗』は「岩波書店と春陽堂とが原著者に交渉中なるが両方から出る様になるかも知れぬ」(『時事新報』1916・10・17)という噂こそあったものの、岩波書店から刊行されることとなった。一方春陽堂は、『新小説』臨時号を刊行。「文豪夏目漱石」と題したこの追悼号に今回は注目する(以下『文豪夏目漱石』と表記)。春陽堂は漱石の死とその波紋を、どのようなドキュメントとして残そうとしたのだろうか。

図1 『文豪夏目漱石』表紙

図2 『文豪夏目漱石』目次


急ピッチの編集作業
 出版物としての特徴に注目してみよう。表紙(図1)の水仙図は1915年3月、京都木屋町に津田青楓やその兄西川一草亭らと遊んだ際に漱石が描いたもの。巻頭には、幼少から最近までの肖像や旧居、書画の写真、とじ込みで俳句の短冊が付属している。趣向を凝らし、漱石の表現の幅を示そうという意欲を感じる。また目次の裏では早くも小宮豊隆らにより遺稿集刊行のための資料提供が呼びかけられている。ほどなく、岩波茂雄が先導して岩波書店・春陽堂・大倉書店による『漱石全集』刊行委員会が結成されることになる。
 目次(図2)を見ればわかるとおり充実した誌面だが、急ピッチの編集作業だったことがうかがわれる。松岡譲「其後の山房」(『新思潮』1917・3)によれば12月31日には『文豪夏目漱石』が出て、松岡は元旦の朝に読み、同日午後の漱石山房では赤木桁平、内田百閒、岡田耕三、久米正雄、野上豊一郎、松浦一、森田草平らが集まって合鴨をつついていろいろな話をするうち、『文豪夏目漱石』の感想が話題にのぼったらしい。とすると、漱石の死が12月9日であるから、3週間のうちに編集作業が進められたことになる。寄稿文の末尾に赤木桁平は「十二月二十一日午前四時、早稲田夏目邸に於ける先生生前の書斎に於いて、先生の新霊の前に通夜しつつ」と書きつけており、日付のあるものではこれが一番遅い。赤木は漱石生前に「夏目漱石論」(『ホトトギス』1914・1)を発表していたし、『夏目漱石』(新潮社、1917)で最初の評伝作家ともなった人だが、ここまでくると少々あざとい感じもする。
 編集後記によれば森田草平による臨終記、芥川龍之介による葬儀記、評伝記事の英国留学時代部分、また他の作品梗概や書簡集など、掲載したかったが間に合わなかったものが多いという。芥川は後述するが、森田は単にダブルブッキングがうまくこなせなかっただけで、「十二月十八日夜」擱筆かくひつの「漱石先生と門下」(『太陽』1917・1)があり、さらに同記事の不正確な部分を「漱石先生の思出」(『文章世界』1917・2)で訂正した。

火花散る文豪たちの競演
 次に内容をみてみよう。春陽堂のコネクションを生かして文壇から幅広く談話を取り「内輪褒め」を避け得たのは編集上の美点だが、そのぶん冷や水を浴びせかけるかのようなトーンの発言も見受けられる。当時、「文豪夏目漱石」などと仰ぎ見るような評価は、文壇の合意事項ではなかったのだ。いわば、漱石を語るという共通の演目を演じる文豪たちの間に、見えない火花が散っている。松岡が怒りを感じたものに限ってみてみよう。
夏目さんは、ほとんどと云つてもい位ゐ西洋の新らしい作を読んでゐないと思ふ。
(内田魯庵「温情のゆたかな夏目さん)
あの人のものは、創作を読んでも評論を読んでも殆んど同じ味はひである。(略)晩年の作品を読まないから分らないけれども、恐らく余り変化をしない作者ではなかつたか、人間に於ても創作に於ても。
(島村抱月「初めから固定して居た人」)
譫言うはごとの一種として発せられた言葉を以て、ただちに先生を批評することは出来ないが、『死ぬると困る』と云はれたのがどうも本音だらうと思ふ。
悟られたやうに見えたのは知識や理屈の上のものであつて、先生の生命の根本にまで徹した悟りではなかつたらしい。(略)僕の見るところではまさに死なうとする刹那に於て、の悟りは破れたといふ様に考へられるのである。
(中村星湖「天に則つて私を去る」)
 これくらいなら決めつけに過ぎないが、正宗白鳥は以下のように作品を否定し、追悼号を出すことまで批判した。
今までゞは氏の作物に共鳴を感じたことはありません。「心」などは理屈でこねまわした作物のやうに思ひました。氏の作物には女同士の話がまるで外交談判でもしてゐるやうに思はれるところが多いやうです。(略)氏は嘗て中央公論で漱石合評をされた時に、それを大変いやがられたとか聞きましたが、今また漱石号などを出されるのを生前に知つてゐられたらさぞいやがられたことでせう。
(正宗白鳥「夏目氏について」)
 以上はいずれも初期作品以外ろくに読んでいないというエクスキユーズがあるだけマシだ。むしろ最も手厳しいのは松岡が名前を挙げてさえいない田山花袋のほうだ。
私は夏目さんの作品が新聞などに現はれる都度、大抵は努めて通読して来ましたが、その作品のいづれを読んでも、一体何処がいゝのか解らない。いや、一口に云へば私は夏目さんのものに対しては理解の頭がないと云つた方が当つてゐるかもしれない。(略)まづ一等優れてゐると思つたのは「それから」です。道代〔正しくは三千代〕とか云ふ女の心理描写がなか/\巧いやうに思ひました。(略)夏目さんの心理描写は細かい、如何にも細かい所まで行き届いてゐるが、それは極めて一般的な鎖細ささいな場合を描いたものばかりで、グイ/\と首を締めつけるやうな大問題には逢着してゐない。吾々が夏目さんのものを読んで何時も物足りなく感じるのは此の点です、露西亜の作品などにはうした痛烈な大問題にかつた場合が、えぐるやうに描かれてゐるが、夏目さんのものにはさう云ふ所が皆無だと思ひます。
(田山花袋「歩いた道が異つて居た」)
 岩野泡鳴や徳田秋聲にしてもそうだが、『文豪夏目漱石』は結果的に、自然主義と反自然主義という党派性を再確認させる。火花が散っているのだが、見飽きた構図ともいえる。
 一方、これを得ただけでも『文豪夏目漱石』の大手柄というべきは、漱石に借金を申し込みにいったときを回想した泉鏡花の追悼文だ(*1) 。
江戸児えどつこだから長いことを饒舌しゃべるには及びません、半分いへば分つてくれる、てきぱきしたもので。それに、顔を見ると此方に体裁も、つくろひも、かけひきもなんにも要らなくなる、又夏目さんの、あの意気ぢや、らうたつて、体裁も、つくろひも、其のかけひきも人にはさせやしますまい。そこが偉い、親みのうちに、おのづから、品があつて、遠慮はないまでも、礼は失はせない。そしてね、相対すると、まるで暑さを忘れましたつけ、涼しい、潔い方でした。
姿と、人がらは覚えて居ますが、座敷の模様だとか、床の間の様子なんぞはちつとも知らない、まるで見なかつたんでせう。いづれ、あの方の事だから、立派な書架もあんなすつたらうし、しかと心持、気分ですか、其の備はつた軸もの、額の類と云つたものもありましたらうけれど、何にも知りません。逢つて気が詰つて、さうした事に心をうつす余裕をなくされるんぢやない、夏目さんさへ、其処に居れば、何にも、そんなものは要らないのです。まあ、其の人さへ居れば、客に取つては道具も、装飾も、もう、ひといき申せば、座敷も、家も、極暑に風がなくつてもいつて云ふ方でした。
それだのに、それだけに尚ほ、其の人が居なくなっては困りますのにね、──夏目金之助さんと云ふ名ばつかりになんなすつた。十二月十二日の朝、青山の斎場で銘旗にかゝれた、其の名を視た時には、何とも申されない気がしましたよ。私は不断から、夏目さんの、あの夏目金之助と云ふ、字と、字の形と、姿と、音と音の響とが、だいすきだったんです、夏目さん、金之助さん、失礼だが、金さん。何うしても岡惚れをさせられるぢやありませんか。
(泉鏡花「夏目さん」全文はこちら


天才と狂気の文豪夏目漱石像
 ほかに気になる記事といえば、巻頭の「夏目漱石氏の逝去」という記者名義の臨終記(といっても『東京朝日新聞』からの引用が大半を占める)に続く、医学博士長与又郎ながよまたおによる「夏目漱石氏剖検」だろう(*2)。
 この記事は、1916年12月10日、東京帝国大学医科大学の病理学教室において漱石を解剖した長与が、16日に大手町の私立衛生会館で開かれた日本消化機病学会で行なった講演を、春陽堂の記者が筆記したものだ。同じ講演を記録した「夏目漱石氏剖檢(標本供覧)」(『日本消化機病学会雑誌』1917・3)(*3)と比べても、専門的すぎる部分を省いたほかは概ね正確に趣旨を伝えている(*4)。11日朝の『東京朝日新聞』には「氏の脳髄は医学上の参考材料として酒精アルコールづけとし別に内臓諸患部と共に大学に保管する事となつた尚長与博士は一世の大政治家たりし故桂公の遺骸解剖の際にも自ら執刀せるが文芸家たる夏目氏の脳と桂公のそれとを比較し『公の脳は大きかつたが廻転に於て漱石氏の方が細こまかである』と語つた」とある(図3・4)。16日の講演では「脳ヲ今日持ツテ参リマシタ」(『日本消化機病学会雑誌』)と現物を持ってきて話していたようだ。

図3 東京帝国大学医科大学解剖学実験室(1900年頃)

図4 東京帝国大学医科大学病理学列品室(1900年頃)

 漱石の脳は通常の日本人よりも75グラム重く、脳のしわも複雑で、偉大な人物の脳の特徴を備えていると長与はいう。そして死因となった胃潰瘍について詳しく述べた後、漱石も患っていた糖尿病患者には精神症状があり、「追跡症」もその一つであるという。しかも「追跡症」については、天才と狂気を結びつけるチェーザレ・ロンブローゾの『天才論』(*5)(図5)を引き合いに出して「漱石氏のやうに脳が非凡な天才者」には素質があったと述べている。

図5 ロンブローゾ『天才論』の図版。哲学者カント、物理学者ボルタ、科学者フジニエリ、詩人フォスコロの頭蓋骨を比較している

 この点は『東京朝日新聞』(1916・12・17)が見出しに端的に「解剖から見た漱石氏 ▽天才に能くある ▽追跡狂的の症状 長与博士講演」と題して注目を集めた。朝日の記者は『文豪夏目漱石』よりも『日本消化機病学会雑誌』よりも一歩踏み込んで、「奥様のお話に先生は病気にならるゝと追跡症と言つて『自分に誰かが悪口を言つて居る』とか変なことを言ふことがあつた、此の症状の原因は解剖の結果判らないだらうかと言ふお話であつた」と夏目鏡子の発言について述べたところを収録していて生々しい。『文豪夏目漱石』に取材された田山花袋や秋田雨雀も、他誌では漱石の脳についての報道に言及していた(*6) 。
 岡田温司は『東京朝日新聞』のこの記事に注目して、ロンブローゾの説を下敷きとした「漱石の『天才=狂気』神話は、解剖学を後ろ盾として学術的なレベルから一般大衆のレベルまで、広く流布していった」と述べ、とりわけ芥川龍之介ら後進が抱く芸術家像に与えた影響に注目している(岡田温司『ミメーシスを超えて──美術史の無意識を問う』勁草書房、2000)。芥川の「闇中問答(遺稿)」(『文藝春秋』芥川龍之介追悼号、1927・9)では「お前はそれでも夏目先生の弟子か?」と問う「或声」に、「僕」は「僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知つてゐるかも知れない。しかしあの気違ひじみた天才の夏目先生を知らないだらう」と答えている。『文豪夏目漱石』は表紙や付録などで「文墨に親しんだ漱石先生」を外装のようにまといながら、あたかも巻頭で「気違ひじみた天才の夏目先生」という像を提示しているかのようだ。
「死があたかも一つの季節を開いたかのやうだつた」という書き出しで芥川の死の衝撃を語り起こしたのは堀辰雄『聖家族』だが、漱石の死はしばしば文学史上の時代区分の目安に用いられてきた。たとえば『文豪夏目漱石』に原稿が間に合わなかった芥川は、『新思潮』の「漱石先生追慕号」に「葬儀記」(『新思潮』1917・3)を寄せている(前掲の松岡譲「其後の山房」もこの号に掲載)。第四次『新思潮』はこの号をもって予告なく終刊となった。もはや押しも押されもせぬ作家となっていた面々にとって、同人雑誌は役割を終えてしまったのだろう。『文豪夏目漱石』にはベテラン作家たちの文壇勢力図が見てとれたが、同時に漱石の死は、新たな時代のはじまりを予感させた。
【註】
*1 泉鏡花「夏目さん」の自筆原稿は、生田敦夫氏がカラー写真とともにFacebook上で紹介している。https://www.facebook.com/381279951913804/posts/1794230707285381/
*2 雑誌記事の配列を多少変更した同内容の書籍、和田利彦編『文豪夏目漱石』(春陽堂、1921)では不思議なことに、長与の「夏目漱石氏剖検」が最後に配列されている。
*3 この記事はウェブ公開されている。https://doi.org/10.11405/nisshoshi1902.16.2_105
*4 ただし長与がとあるフランスの学者と、病理学者「ノオールデン」(Carl von Noorden)という二人の学説を続けて紹介した部分を、春陽堂記者は取り違えて「仏蘭西の学者ノルデン氏」と一人にまとめてしまった。
*5 原著初版(イタリア語)はCesare Lombroso, Genio e follia, Milano: Chiusi, 1864. 漱石が読み、帝大授業で取り上げ、『文学論』(大倉書店、1907)でも取り上げたのは英訳The Man of Genius, London: Walter Scott, 1891. 当時邦訳書としてはダダイスト辻潤による訳『天才論』(植竹書院、1914;三陽堂書店、1916)や森孫一訳『天才と狂人』(文成社、1914;英語からの重訳。鴎外の序文・呉秀三の題詩あり)、ダイジェストとして中村古峡(編述)『天才と狂気』(青年学芸社、1914)が出ていた。
*6 田山花袋「脱却の工夫」(『文章世界』1917・1)には長与の談話記事(『東京朝日新聞』前掲)が、秋田雨雀「寧ろ人として」(『近代思潮』1917・1、記事は12・12付)には解剖に立ち会った真鍋嘉一郎の談話(『東京朝日新聞』1916・12・11)が参照されている。
※引用文中のルビはすべて編集部で付した。
【参考文献】
五味渕典嗣「漱石の死」(小森陽一・飯田祐子・五味渕典嗣・佐藤泉・佐藤裕子・野網摩利子編『漱石辞典』翰林書房、2017、p.482)
瀬沼茂樹『日本文壇史24 明治人漱石の死』(講談社文芸文庫、1998)
【図】
図3・4は東京大学デジタルアーカイブズ「東京大学総合図書館蔵写真帖『東京帝國大學』」(https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/shashincho/page/home)よりトリミングして引用。

この記事を書いた人
服部 徹也(はっとり・てつや)
1986年、東京生まれ。東洋大学専任講師。著書に『はじまりの漱石──『文学論』と初期創作の生成』(新曜社)、共著に西田谷洋編『文学研究から現代日本の批評を考える──批評・小説・ポップカルチャーをめぐって』(ひつじ書房)など。