南條 竹則

第2回 尾崎紅葉とお萩餅【後編】

 前回、尾崎紅葉夫人のつくったお萩の話をしたが、お萩についてはほかにも話がある。やはり紅葉にまつわる思い出だ。
『鏡花全集』別巻をひもとくと、「泉鏡花座談会」の記事が載っている。昭和2年8月1日発行の『文藝春秋』に掲載されたもので、鏡花以外の出席者は久保田万太郎、里見弴、柳田國男、菊池寛という面々だ。
 柳田國男がいただけあって、この席では妖怪の話が出た。河童や、熊、猫、ヤモリなど動物の怪のことをひとしきり語ったあと、菊池寛が紅葉山人の話をしようと言ったので、鏡花は次のような逸話を披露する。
 牛込にある芸者がいて、硯友社けんゆうしゃの人たちがいつも贔屓ひいきにした。
 ある時、時間を約束して、この芸者をお座敷に呼んだが、ほかの客も来たし酒席もはじまっているのに、その姐さんがいっこうに来ない。ひどく遅れてやって来たから、「どういうわけだ」と紅葉がやっつけた。
 すると、姐さんはこう言った。
「お彼岸でお萩餅をこしらえていましたから、つい」
「そのお萩餅は持って来たか」と紅葉。
「お萩餅などは持って来られません」
 姐さんがそう答えると、紅葉は言った。
「お萩餅などと安く扱うな、お前よりは大したものだ……これこれで遅くなりましたと、そのお萩餅を持って来てみな、どんなに情愛のある姐さんになれるか知れない。白粉を塗った顔より、男はそこへ惚れるんだ」(『鏡花全集』別巻250-251頁による)
 紅葉はちょっと聞くと無理のようなことをよく言ったけれども、その底に本当の情がこもっていたと鏡花は言いたかったようだ。
 彼はこの話にちなんで、もうひとつ自分の話をする。
 鏡花が芸者をしていた伊藤すずと結婚しようとして、紅葉に強く反対されたことは有名である。二人は泣く泣く別れたが、こっそり交際を続けて、紅葉の死後結婚した。
 その奥さんと(鏡花の言葉によれば)「世帯を持つた時に」お萩餅をこしらえて、横寺町よこでらまちの紅葉の家で玄関番をしている友達だけに持って行った。紅葉はすでに病に伏していたが、翌日鏡花に向かって、問いただした。
昨夕ゆうべお前、お萩餅を持って来たというじゃないか。玄関の書生に持って来て、なぜ俺には見せない。家で拵えたので不味いけれども持って来たと言って、なぜ持って来ない。うまいのは食べつけてる。お前のとこのまずいのが食いたいのだ」
 鏡花は例の牛込の芸者の話を聞いていたけれども、やはり不味かろうと思ってお萩を持って行かなかったと語っている。しかし、どうだろう──すずの作ったものだから、気が引けたのだと邪推できなくもない。
 書生時代の食べ物の思い出で、もう一つ際立っているのは焼芋の話だ。
 同じ『鏡花全集』別巻に「新潮合評会」第二十三回(文壇思ひ出話)というのが載っていて、その席で鏡花は言う。
 いくら物価の安い時だつて収入がそれですから、大概寄合つて気焔を吐くのに、餅菓子などは贅沢で、焼芋ですよ。酒なんぞ誰も飲めやしない。焼芋を買つて来てお茶を飲んで談じたもんです。(別巻193頁)
「談話」所収「紅葉先生の玄関番」(明治四十二年九月)という文章には、こうある──
 柳川君が来てからは、二人で相談して、夜おそくそつと蕎麦食ひに行つたり、焼芋を買つたりして食つた。ある晩、先生が留守の時、二人で金を出し合せて焼芋を買つて来たが、まだ襖一重の次の部屋には年寄がたが起きて居られるので、焼芋を出すと匂ひがするから、後で食べようと思つて本箱の中に入れて置いた。その内に柳川君は机にもたれながらふらふらと眠り初めた。やがて次の部屋では眠られた様子、もう食つても可いなと思つて居ると、其処へ先生がガラガラッとくるまで外から帰つて来られた。そこで、「おい、柳川! 」とドンと背を叩いて、「先生が帰られた。」と言ふと、起されたのがしゃくに障つたのか、焼芋でも食つて了つたと思つたのか、ツンとして何かブツブツ言ひながら立つて行つた。そして其まま、三日ばかり一口も口をきかなかった。ところが或る日、私が石橋さんのところへ使ひに行つて帰る時になつて、石橋さんから「おい !」と言つて、立派な柿を五つ渡された。私はそれを持つて帰つて、「おい、どうだい。」と一つ柳川君に差し出すと、ウフフと笑つて受取つて、それから又口をきき出した。ところが後になって其柿は先生に上げるんだつたといふことが分つて、大いに恐縮したことがある。その石橋さんは、毎年お正月には極つて二十銭づつ下すつた。それが大変有難かつた。(巻二十八742-3頁)
 ここにいう「柳川君」はもちろん柳川春葉だ。「石橋さん」は一説によると、文芸評論家の石橋忍月。「談話」中の「中庸の人」に「柳川君はそこから春陽堂へ通って、石橋忍月氏と共に新小説の編輯をしたこともあります。」(別巻825頁)とある。
 筆者はこれを一読した時、紅葉らと共に硯友社を結成した石橋思案ではなかろうかと思ったが、詳しく調べてみないから、何とも言えない。識者の御教示を乞いたい。


この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に小説『あくび猫』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)