【第30回】


フランク・ロイド・ライト
 NHKBS2で『刑事コロンボ』シリーズを毎週放送している。同時期にCSのミステリーチャンネルでは、毎日2本ずつ同シリーズを放送。いかに強いコンテンツであるかが分かります。そんなわけで、録画したのをまたまた視聴することになる。ほんと、飽きずによく観るよ。とくに最初の20本ぐらいまでが、プロット含め、よくできている。
 14回目が『偶像のレクイエム』。内容については、NHKのホームページ解説を借ります。
「往年の名女優ノーラ・チャンドラーは、過去に出演した作品の損失を会社に押し付けていた。その事実を記者のパークスにかぎつけられ、口止め料を要求される。彼を殺そうと決意したノーラはパークス邸のガレージにガソリンをまき、車を爆発炎上させる。しかし乗っていたのはパークスではなく、彼の婚約者でノーラの秘書のジーンだった」。
 このノーラ・チャンドラーに扮したのがアン・バクスター。実際に「往年の名女優」で、「イブの総て」「十戒」など、代表的な作品はいくつも挙げられるはずだ。……と言いつつ、じつはどんな作品に出ているかネット検索してしまった。驚いたことに、アン・バクスターは建築家フランク・ロイド・ライトの孫であった。
 さあ、ここからライトの話に切り替わります。ひとまず『刑事コロンボ』のことは忘れて下さい。何に驚いたかと言えば、ちょうど「美の壺」(NHKBSプレミアム)再放送の「ライト」の回を偶然見たり、海野うんの弘『東京の盛り場 江戸からモダン都市へ』(六興出版)を再読し、ライトについての記述に感銘を受けたりしたからだ。こちらも偶然。ライトが私を呼んでいる(そんなことはないか)。

 世界的なこの建築家を最初に知ったのは、高校時代に聴きはじめたサイモン&ガーファンクルの一曲「フランク・ロイド・ライトに捧げる歌」(So Long, Frank Lloyd Wright)であった。アルバム『明日に架ける橋』に収録。この時、歌詞カードにライトが何者かであるか、注があったように思う。それが私の初「ライト」だ。アート・ガーファンクルがコロンビア大学の建築科出身で、相棒のサイモンに曲作りを所望したのだという。なんだか知性を感じるなあ。日本の歌で、建築家の名前を歌にした作品ってあったかな。
 一つには「フランク・ロイド・ライト」という名前そのものが韻律に富み、音楽性を内包している。口に乗せるだけでメロディーが出てきそう。「辰野金吾たつのきんご」ではそうはいきません。ライトが大の日本びいきだったことはよく知られる。浮世絵の収集家だったし、本国アメリカ以外で、彼が設計した建築は日本のみ。代表は「旧帝国ホテル」(玄関部のみ明治村に移築)。ほか「旧山邑やまむら邸」、「自由学園明日館」「旧はやし愛作あいさく邸」があり、いずれも持ち主は変われど保存されている。さて、海野弘『東京盛り場』に収録された「帝国ホテルの時代」を読んで感銘を受けた話をしよう。
 ライトが設計した個人住宅「旧林愛作邸」の林愛作こそ、現在、日比谷に建つ帝国ホテルの前身建設計画の折り、ライトを設計者として招聘した人物であった。林は当時の支配人。しかしこれは冒険であった。「当時ライトは、住宅建築ではかなり有名ではあったがホテルの経験はなかった。その建築はかなり特異で前衛的であり、私生活はスキャンダルに包まれていた」からである。この「スキャンダル」とは壮絶なもので、問題の多い4人の妻を生涯に持ち(一番問題が多いのはライトだが)、そのうち1人がアン・バクスターの母親、ということになる。それだけではないのだが書くに忍びない。興味のある方はご自分でお調べ下さい。私はライトの名誉のために口を閉じる。
 そんなライトに帝国ホテルの設計をまかせることについては、周囲の反対もあったろう。しかし林は断行した。施主・大倉喜八郎会長の後押しもあったか。ライトによる新館の着工が1919年。ところが「その工事は、困難を極め、予定よりもどんどんおくれてゆき、費用もふくれあがっていった。ライトも完成まで見とどけることができず、後は弟子にまかして帰国しなければならなかった」。林は関係者から突き上げを食らったろうし、建築家が完成を見ずに帰国とは面目丸つぶれである。完成は1923年。直後、関東大震災に見舞われる。周囲の西洋建築は崩壊、火災で姿を消したが、当時の写真を見ると、旧帝国ホテルはほぼそのままの形で屹立している。
「あまりに費用がかかるので、玄関の前にプール(蓮池)をつくる計画をやめたいという案が出た。ライトは地震の時の火事を消すためどうしてもいると主張した」。そして、その通りになったのである。
 ライトが日本を去る日のことを自伝に書いているという。以下、海野の著作から。
 ライトが船に乗るため、車で館内を抜けて玄関へ出た。その時、目にしたのは「そこには働いている人たち全員が集って、私を待っていた」という光景だった。「あらゆる階層の働く人たち、掃除をする人から、ホテルの幹部までが集ってきて、笑ったり、泣いたり、外国風に握手をおかしげに求めたりした」。そして「アリガト」、「サヨナラ、ライトサン」と口々に叫んだのである。歓送会はすでに済んでいたが、ライトは「これこそ本当の見送りだ」と思った。
 東京駅から汽車で横浜へ。すると港へは、汽車で追いかけてきたホテルの人々が駆けつけており、乗船するライトに手を振り、再び見送ったのである。ライトは「なんという人たちだろう。世界中で、こんなに忠実に、親切で心に触れるあたたかさを示してくれるところがあるだろうか?」と自伝に感激ぶりを記した。
 ライト館は1967年に新館建設のため壊された。玄関部のみとはいえ、よくぞ明治村へ移築保存されたものだと思う。私は未見。しかし、ライト館の前に立つ時、ライトが聞いた見送りの声を再び思い出すであろう。 

かつて大阪にあった温泉演芸場
 桂米朝の『上方落語ノート』(全4冊)が順に岩波現代文庫に収録され、先ごろ『第二集』が出た。「落語と能狂言」「先輩諸師の持ちネタ」「続・考証断片」「おどけ浄瑠璃」など、落語にとどまらず、上方の諸芸全般に調査、研究が及んでいる。よくぞ、書いておいてくれたものだと、学者肌だった米朝師に感謝したくなる。しかし、ここで難しい話はしない。ごくお気楽な話題をいくつか。
「温泉演芸場の思い出」という文章がある。大阪・新世界にあった寄席「新花月」が閉館(1988年9月)となったことに触れ、かつてここが「温泉演芸場」と呼ばれた頃を回想している。「温泉劇場」が併設されたことからこの名がつき、のち「新花月に」に改名したという。私は存在こそ知っていたが、入ったことがない。特に幼少期、「新世界」自体、あまり足を踏み入れる場所ではなかったのである。簡単に言えば怖かった。
 米朝曰く、温泉演芸場時代に「よく出演してここで鍛えられたものだった」。なぜなら「おもしろくなければ大きな声で欠伸あくびはする。弥次はとばす、きびしいお客であったが、懸命にやっているとまたそれにこたえてもくれた。馴染みになると大きな拍手で迎えてくれたし、落語に興味のないお客が『はよ引っ込め』などと言うと、『まぁ一ぺん聞いたれや』などと弁護してもらったこともある」。

 温泉演芸場の出演者の一人に初代笑福亭福團治ふくだんじがいる。落語の凋落期、漫才や音曲中心の上方演芸にあって、踏ん張っていた一人である。米朝はよく高座が一緒になり、本来なら「桂」系の芸名である「福團治」が、なぜ「笑福亭」なのかを聞き出している。米朝の見るところ、この笑福亭福團治は「どんな場所で、どんなお客にぶつかっても驚かなかった」という。「立って落語を喋る……なんかは、この人にとっては日常茶飯事である」。
 私も「立って落語を喋る」噺家は見たことがない。米朝も「昔は私なんかもよく立って喋らされた」とのことである。つまりこういうことだろう。繰り返しになるが、上方の演芸界にあって主流は漫才、および浪曲や歌謡ショーで落語は添え物だった。次々と演者が舞台に登場する際に、落語は座布団、見台などが必要になる。それが揃ってから、出囃子が鳴り、噺家がやっと登場する。その間、お客は待たされるわけでテンポが崩れてしまう。「いらち(せっかち)」な上方人にとっては、その間が許せない。「もたもたせんと、はよ出てきて、ちゃっと喋ってひっこめや!」となる。それで「立って落語を喋る」ことになったのだろう。
 温泉演芸場に出演していた人を、米朝が手帳に記録していた。1954(昭和29)年11月中席に米朝、12月中席に福團治の名がある。ほか、知らない芸人が多い。知っているのは「笑美子・笑顔・やっこ」、「小圓こえん・栄子」ぐらいか。1957年生まれの私でも、子どもの頃、テレビや角座で彼らの現役の舞台を見ている。前者は和服で三味線を抱えた「三人奴さんにんやっこ」。中央の「やっこ」は太棹を弾き、人形浄瑠璃のネタを漫才にしていた。紙で作った裃をつけ、デデンと弾きだすと、笑美子を人形に見立てて、笑顔が黒子となり浄瑠璃の一場面が現出する。私はこれで人形浄瑠璃が何たるかを知った。浪曲をベースにした音曲漫才(たとえば「宮川左近ショー」)が多い中、これは異色であった。 
 小圓も出自は噺家で、三味線を持って高座へ上がっていた。エンタツ・アチャコ登場以前の形の「萬歳まんざい」(捨丸・春代)も、浪曲も浄瑠璃も、大阪の子どもたちは演芸番組を通じて匂いだけでも知っている。しかも、かしこまらずに笑いながら享受していた。当時は気づかなかったが、今思えば、様々な諸芸に触れる絶好の機会を与えられたのである。これは幸せなことだった。
(写真とイラストは全て筆者撮影、作)
『明日咲く言葉の種をまこう──心を耕す名言100』(春陽堂書店)岡崎武志・著
編集者、ライター経験を経て、書評家、コラムニストとして活躍する岡崎武志。 小説、エッセイ、詩、漫画、映画、ドラマ、墓碑銘に至るまで、自らが書き留めた、とっておきの名言、名ゼリフを選りすぐって読者にお届け。「名言」の背景やエピソードから著者の経験も垣間見え、オカタケエッセイとしても、読書や芸術鑑賞の案内としても楽しめる1冊。
この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。