【第31回】


梅雨入りした時読んだ歌
 6月11日に関東も梅雨入りした。例年より少し早いようである。そう書いている今(6月12日)も、夕方に入って昨日に続き雨となった。湿気が肌にまとわりつくようだ。午前中にスーパーへ買い出しに行っておいてよかった。
 大岡信『第三 折々のうた』(岩波新書)を、風呂に浸かり汗を流しながら、ぼんやり読んでいると「夏のうた」に、次の歌を見つけた。
蚊遣火かやりびけぶりは軒をつたひつつたちものぼらぬ雨の夕ぐれ」
 どうです、ゆったりとした気分になる、あざやかな歌でしょう。大岡は「雨中の蚊遣火の立ち迷うさまを詠んでいるが、語の運びに、確かな観察にもとづく安らかな歩調があって好ましい」と解している。部屋の蚊遣火の煙が立ち上り、軒まではいくものの外は雨なので、軒下で留まっている、という感じであろうか。目の動きが映像的である。
 こんな優雅で繊細な歌を作ったのは、誰あろう松平定信であるというので驚いた。何しろ、高校の日本史程度の知識で言えば、「寛政の改革」を専行した悪玉老中。賄賂政治で江戸を染めた前任老中・田沼意次を批判し、徹底した財政緊縮、倹約統制を行った……と、ここまでで精一杯。それがため、経済、文化ともに大いに停滞し、庶民には不人気であったらしい。
 まあ、わかります。大田南畝おおたなんぽが狂歌に「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼恋しき」と詠んで喝さいを浴びた。「白河」とは、定信が奥州白河藩主だったことを指す。まだ田沼時代の方が景気は良くて、なんだか、定信は粋や風流の分からぬ朴念仁というイメージ。この時代を背景とした石川淳の長編小説『至福千年』の中で、登場人物にこう言わせている。
「松平定信ごときが賢人づらを突き出して来るようでは、伸びるはずの料簡りようけんもちぢこまる。小利口なやつはおのれの狭い器量の外には出られぬものだて。そのかかずらうところは身のまわりの小事のみ」
 しかし「身のまわりの小時」に「拘ずらう」人だったからこそ、「蚊遣火の」の歌に見られるような「平淡な中に優美な味」(大岡信)を表現しえたとも言える。中央政治なんかに手を染めず、奥州でのんびりと殿様稼業をしてもらいたかった。晩年は隠居、「楽翁」と号し、「浴恩園よくおんえん」という広い庭園を抱く屋敷で過ごした。どれぐらい広いかというと、元築地にあった中央卸売市場が、その跡地であります。 

小津安二郎のガスタンク
 民俗学者・宮田登の随筆集『ヒメの民俗学』に、宮田が小学生の頃、ガスタンクというあだ名の同級生がいた話が紹介されている、と丸谷才一のエッセイ集『男ごころ』(新潮文庫)にある。宮田登の原本に当たらずに書くが、これが、なんと怪力の女の子で、「男の子が飛びかかつて行つても、あつといふ間に投げ飛ばされてしまふ」。つまり「びくともしない」というところからついたあだ名だと言う。高層ビルなどない時代、威容を誇る大きな建造物の一つがガスタンクだった。私の少年時代なら、さしずめ「ゴジラ」とあだ名をつけるところか。宮田は1936年神奈川県横浜市生まれ。小学生というなら、太平洋戦争末期から戦後のどこかにかけての話だろう。ただ、戦後ではないかもしれない。というのは、太平洋戦争末期、日本は負けに負け続け、さかんに国内で金属供出を行った。ガスタンクも解体された可能性があるのだ。
 小津安二郎のサイレント映画時代、「喜八もの」と呼ばれる貧しい庶民を描いたシリーズがある。喜八扮するのは坂本武。中年でわびしい子連れの独身だ。たいてい、東京江東区の砂町すなまちあたりが舞台に選ばれ、埋め立て地の荒涼たる空地、一膳めし屋(主人は飯田蝶子)や粗末な長屋暮らしが映る。
 この一連の作で、必ず画面にインサートされるのが「ガスタンク」だ。小津ファンの中では周知のことで、研究が進んでいる。たとえば『出来ごころ』(1933)では、喜八はビール工場に勤める職工だが、話とはまったく関係ない洗濯物が手前に干された画面の背後に、異様なほど大きいガスタンクが映り込む。『東京の宿』(1935)では、幼い娘を抱えて行き場を失う寡婦おたか(岡田嘉子)に惚れ、親切にする喜八が描かれる(「寅さん」の原型、と言われる)が、二人が地面に座って喋るシーンの背後にやっぱりガスタンク。巨大な円筒が画面いっぱいに占められ、人間がひどく小さく見えるのだ。巨大な即物性を背景にすることで、人間くささが強調されると小津は考えたかもしれない。
 しかし、ガスタンクは近代資本主義の象徴であり、それに搾取され押しつぶされていく庶民像……なんて訳知りに解説してしまうとつまらなくなる。小津は「絵の力」としてガスタンクを選んだのだろう。厳格な画面構成をする映画作家だった。
 ところでこのガスタンク、熱心な小津ファンの調査により、現在の北砂一丁目、横十間川よこじっけんがわの東岸あたりにあったと推測されている。この東にかつて貨物の小名木川おなぎがわ駅があり、遮るものは何もなく、遠くからでも砂町のガスタンクはよく見えたはずだ。先ほど、金属供出でガスタンク解体と書いたが、ここもやはり1945年に撤去されたという。
 小津が『出来ごころ』でガスタンクを登場させる少し前、これを見ていた文学者がいた。永井荷風である。昭和6(1931)年12月2日の『断腸亭日乗』でこう書く。
「葛西橋の上より放水路の海に入るあたりを遠望したる両岸の風景は、荒涼寂莫として、黙想沈思するによし、橋上に立ちて暮煙蒼茫たる空のはづれに小名木川辺の瓦斯タンク塔の如く、工場の煙突遠く乱立ちするさまを望めば、亦一種悲壮の思あり」
 この時期、荷風はくりかえし江東を訪ねている。「葛西橋」は荒川放水路に架かる橋。ただし「旧」葛西橋で、現在の位置より上流にある木製橋脚だった。荒川砂町水辺公園内に「旧葛西橋」の碑が残る。砂町のガスタンクまで、直線で約2キロは離れていたが、小津の映画を観る限り、遮るものはなく江東のメルクマークとして十分に遠望できたのだろう。
 殺風景の代表のようなガスタンクだが、ちゃんと夏の季語に入っていて、「緑青のガスタンクまで野の雪解」(飴山あめやまみのる)などがある。小津安二郎も永井荷風も見たガスタンクとなると、急に格が高くなる気がする。

帰り道の愉悦
 演劇評論家で直木賞作家でもある戸板康二といたやすじの随筆集『むかしの歌』(講談社)を読んでいたら、「芝居のかえり」という文章にぶつかった。400字原稿用紙2枚ほどの短い文章だが、これがいつまでも胸に残った。こういう始まりだ。
「歌舞伎座一等席の客が、劇場の前から自動車でスーッと帰ってしまうのも、別段悪いことではない。/しかし、新劇の終った後などわけもなく興奮し、どこまでも歩いてゆきたいような気になることが今でもある僕には、『芝居がえり』というものを、もっと大事にしたい気がする」
 この気持ち、よく分かります。戸板は「築地小劇場」での観劇がハネた後「凍るような夜更けに、松屋の横まで通っているあの道を、コツコツ歩いたコースも、たのしい思い出に今ではなっている」という。あるいは「三越劇場の夜の芝居のあと、ぼんやりと、日本銀行を迂回して神田駅の裏口まで出た記憶は、戦後の新劇に付随して、僕にいつまでも残るだろう」とも書く。芝居を観た興奮を冷まさず、夜の道を歩きながら反芻し、余韻をいつまでも楽しむ。それを含めての「観劇」だと言いたいようだ。

 そこで思い出したのは、京都で学生生活を送っていた1970年代半ばより80年代。よく名画座で映画を観たが、邦画は「京一会館」、洋画は「祇園会館」だった。ほか、方々の名画座(貧乏学生だったからロードショーの封切館なんてめったに行かない)での記憶が混在し、どこで何を観たかがあいまいだが、たとえば『シベールの日曜日』は「祇園会館」で観た気がする。現在「よしもと祇園花月」に名を変えた建物は、名画座を止めたいまでも健在。今回調べたら開館は1958年。週替わりの3本立てで、少し遅れの封切映画や過去の名作などを上映していた。外壁のタイル画、階段を上って高い天井のフロアと赤い客席(桟敷席もあった)など懐かしい。
『シベールの日曜日』(1962年)はセルジュ・ブールギニョン監督によるフランス映画。インドシナ戦争の帰還兵で事故により記憶を失った青年と、12歳の淋しい少女との日曜日ごとの逢瀬を描く。モノクロによる静謐な画像(撮影はアンリ・ドカ)も相まって、静かで切ない作品であった。本来、見終わった後、バスを捕まえて銀閣寺近くの下宿まで帰るところを、映画の余韻に浸って歩くことにした。八坂神社から知恩院、南禅寺をかすめて白川通を北上し、哲学の道をたどって帰ったように思う。4~5キロ、1時間強の道程であろうか。
 まだ若かったし、孤独は属性のようにつきまとって、ときに世をはかなんだ。60を過ぎた今でも、時々、一人で町をほっつき歩くのも、この頃からの習性かもしれない。

(写真とイラストは全て筆者撮影、作)
『明日咲く言葉の種をまこう──心を耕す名言100』(春陽堂書店)岡崎武志・著
小説、エッセイ、詩、漫画、映画、ドラマ、墓碑銘に至るまで、自らが書き留めた、とっておきの名言、名ゼリフを選りすぐって読者にお届け。「名言」の背景やエピソードから著者の経験も垣間見え、オカタケエッセイとしても、読書や芸術鑑賞の案内としても楽しめる1冊。

この記事を書いた人
岡崎 武志(おかざき・たけし)
1957年、大阪生まれ。書評家・古本ライター。立命館大学卒業後、高校の国語講師を経て上京。出版社勤務の後、フリーライターとなる。書評を中心に各紙誌に執筆。「文庫王」「均一小僧」「神保町系ライター」などの異名でも知られ著書多数。