#6「滑落」 木滝りま
 高尾山の山頂近くでリフトを降りた時、冷たい空気が肺に流れ込んできた。峰岸昇は、思わず息苦しさを感じる。しかし日差しは強く、しばらく歩いていると、汗が噴き出してきた。
 この日は、2月にしては温かく、春の陽気だった。昨年の11月に訪れた時には紅葉に染まっていた山々も、今は緑の新芽が芽吹き、梅の木は淡いピンクの花をつけている。辺りの景色にも、春の気配が感じられた。
 山頂から縦走路に入ると、登山道の向かいからトレイルランニングをしている若者たちが次々とやってくる。若者たちは皆半袖姿で、「こんにちは」と声をかけながら昇の横を通り過ぎていった。
(俺も半袖で来ればよかったかな……)
 昇は、着ていた厚手のダウンジャケットを脱ぎ、リュックの中に詰め込む。そして再び歩き出した。
 昇が辿っているのは、俗に「裏高尾」と呼ばれる奥多摩の登山ルートだ。縦走といっても、小学生がハイキングで行けるような初心者向けで、スタート地点の高尾山頂から、城山、景信山と、標高1000メートル以下の山ばかりを経て、最終目的地の陣馬山を目指す。
 妻・美智子が生きていた頃、夫婦ふたりでよく歩いた道だ。昇と美智子は、ふたりとも山が好きだった。登山……というほど本格的なものではないが、ハイキング気分で行ける山々を、年に何度も夫婦で訪れていたのだった。
 あれから5年……。昇は、妻と昇った山をひとりで訪れている。山に登り、亡き妻との思い出を辿ることだけが、今の昇にとって唯一の生き甲斐となっていた。

 城山の山頂で昼の休憩を取ったあと、景信山までの急勾配の道を進む。56歳。まだまだ老け込むような歳ではないが、最近、とみに体力の衰えを感じる。
 ようやく山頂に辿り着き、眼下の絶景を目にした時、昇は何とも言えない気持ちになった。達成感のあとに訪れる、漠とした寂寥感……とでもいうのだろうか。昇は、リュックのポケットから妻の遺骨が入ったお守り袋を取り出し、それを見詰めた。
(美智子……)
 妻を思い出す時、いつもパステルカラーの、ほのぼのとした姿が瞼に浮かぶ。美智子は、器量よしではなかった。歯が少し出ていて、笑うとエクボができる。家事も決して得意ではなく、不器用ながら一生懸命、頑張っているという感じだった。
 デキる嫁とは程遠い女。でも昇にとっては、間違いなく掛け替えのない伴侶であり、愛しい妻だった。だから美智子を失った時、昇の喪失感は、はかり知れなかった。
 医師の余命宣告を、昇が現実のものとして受け入れる間もなく、妻は亡くなった。昇には、すべてが一瞬の出来事のように思えた。
 あれから5年の歳月が流れたが、胸の空洞は埋まることがない。会社では管理職として気丈に振る舞っている昇だが、家に帰れば昼行燈だ。そんな昇を娘や息子たちは心配し、山へ行くなら、自分たちも一緒に行くと、声をかけてきた。
「心配するな。自殺なんかしやしないから」
 昇は冗談めかして言い、この日もひとり家を出たのだった。

 影信山から最終目的地の陣馬山に向かう縦走路は、起伏の少ない尾根道だ。距離は長いが、物思いに耽りながら歩くには、ちょうどいい。
「あなたが定年を迎えたら、ふたりでもっと色んな山に登れるわね」
「そうだな。海外の山にも行きたい。スイスとか、ヨーロッパの山々を巡るのもいいな」
 生前の妻とそんなことを言い合っていた思い出が、心の中をよぎる。
 立ち止まって、稜線の片側を振り仰ぐと、そこには見事なまでに白く、くっきりとした富士山が見えた。
(海外なんて贅沢は言わない。美智子……もう一度、お前とこの景色を眺めたかった)
 昇は、心の中でつぶやく。辺りの静けさが胸に染みた。

 しばらく歩きつづけていると、天に向かっていななく馬のモニュメントが見えた。昇は、陣馬山の山頂に辿り着いたのだ。夕焼け空が、辺りの山々を赤く染めている。
(……しまった)
 感傷に浸っていた昇は、現実に帰って、はっとなった。
 日が高いうちに山をおりるつもりでいたので、普段常備している登山用のヘッドライトを、この日に限って持ってきていなかったのだ。下山時間のことを考え、不安になる。
(少しばかりのんびりし過ぎたかな……)
 だがまだ日没までは、30分ほど余裕があった。急げば、日が落ち切る前に下界に辿り着けるだろう。昇は、急ぎ足で山をおり始めた。
 しかし西の空に浮かんだ夕陽は、見る間に落ち始め、辺りはどんどん暗くなっていく。
 薄暮が徐々に深まって行き……。そしてついに、日没の瞬間が訪れた。辺りは真っ暗な闇に包まれる。昇は、慌ててリュックを探り、ポケットから明り代わりのスマホを取り出した。が……それは電池切れだった。
(いい歳して、何やってんだ俺は)
 昇は、自分の迂闊さを後悔した。明りがなくては、道が見えない。このまま前に進むのは危険だと、頭の中で警鐘が鳴る。幸いこの日は陽が落ちても温かく、リュックの中には厚手のダウンジャケットも詰め込んでいた。暖を取りながら朝になるのを待って行動することが正しい選択のように思われた。
 しかし昇は、もう5分も山をおりれば、バス通りに出られるところまで来ていた。たったそれだけの行程のために、2月の山でひと晩、野宿をする気にはなれない。それにスマホも通じないとなれば、娘や息子たちが心配し、大騒ぎになる可能性もあった。
(何としても今日中に山をおりなくては……)
 昇は、気力を奮い立たせる。足元を確認しながら、そろそろと歩き出すと、目が暗闇に慣れてきたのか、うっすらと、道らしきものも見え始めた。
(うん。いい調子だ。このまま歩き続ければ、下山できるかもしれない)
 だが安堵したのもつかの間、次の一歩を踏み出した瞬間、足元が大きく傾く。山道ではなく、山の斜面に踏み出してしまったのだ。バランスを崩し、転倒した昇は、そのまま、なす術もなく、ごろごろと山の斜面を転がっていく。
(滑落か!?)
 一番、恐れていたことだった。昇の脳裏に、「死」の一文字がよぎる。戦慄が走った。

 しばらく転げ落ちたあと、昇は木に引っかかり、止まった。どうやら命に別状はないようだ。目の前には、ごろごろした岩や大小の石がある。その向こうには、川が流れていた。昇が転げ落ちた場所は、谷底の渓流の側だった。月明かりに照らされて、辺りの景色は、山の中にいた時よりもはっきりと見える。
(あのまま死んでいたら、子供らは、俺が自殺したと思うだろうなぁ……)
 今朝、家を出る時、娘や息子たちと交わした会話を思い出し、昇は乾いた笑いを漏らす。次の瞬間、昇の中に、ここ5年間で感じたこともなかったような強い思いが湧いた。
(冗談じゃない。このまま死んでたまるか)
 子供たちに、自ら生きることを放棄するような、無責任な親とは思われたくない。いや、それ以上に、「生きたい」という単純な欲が、昇を突き動かした。
昇は、全身の力を振り絞って立ち上がると、川沿いの道をよろよろと歩き出す。転落した時にくじいたのか、あるいは軽く骨にヒビでも入ったのか、踏み出した右足首には鈍い痛みがあった。しかし歩行が困難なほどの痛みではなく、それ以外に怪我もない。不幸中の幸いとしか言いようがなかった。
(このまま、川下に向かって歩いていけば、山から出られるかもしれない……)
 昇は、そこに一縷の望みを抱く。渓流沿いの道は狭く、歩きにくい岩場ばかりが続いていたが、その岩場を、ただただ無心に歩いた。
だがしばらく経ったのち、昇の一縷の望みは絶たれる。去年、列島を襲った台風の影響で土砂崩れが起き、川沿いの道は塞がれていたのだった。昇は、その場にへたり込む。もはや自力で山を脱出することは、不可能に思われた。
(このまま救助を待つしかないのか。でも何日も誰にも気づかれなかったら……)
 昇は、絶望的な思いに駆られた。ハイキングに行くような山で遭難死する人のことを、どうしてそんな状況に陥ったのかと、昇は常々不思議に思っていたが、今、自分が置かれている状況こそが、まさにそれだった。
込み上げてくる絶望感を、昇は必死で振り払い、どこかに道はないかと、辺りを見回す。すると、渓流を挟んだ向こう側に、切り立った崖が見えた。さらにその奥には、ぼんやりと街灯の灯りらしきものも見える。
(あの崖を登り切れば、舗装した道に出られるのか……?)
 もはや選択の余地はなどなかった。昇は覚悟を決めた。立ち上がって、渓流に足を踏み入れると、そのままザブザブと川を渡り、対岸に向かって歩いていく。不思議と冷たさは、まるで感じなかった。痛めたはずの右足首に痛みもない。
 ほどなくして対岸に辿り着く。
 目の前に聳え立っているのは、切り立った崖――昇は、そこをボルダリングの要領で登り始めた。どこにそんな体力が残っていたのか、自分でも驚くほどだった。普段の昇だったら、この崖をよじ登ることなど到底不可能とあきらめていただろう。
「あなた、子供たちのことをよろしくお願いします」
 どこかで妻・美智子の声が聞こえたのだ。昇は足掻いた。悲しみや絶望、そして妻の命をいともあっさりと奪い去った死というものに対して、必死で抗った。そうすることによって、あの日の妻が蘇ってくる……そんな気がしたのだ。
 気がつくと、昇は崖を登り切っていた。目の前には、舗装された道路が広がり、街灯の明るい光が見えた。
(俺は……助かったのか)
 余りの呆気なさに、笑いが込み上げてくる。しばらく大笑いしたあと、昇はリュックのポケットから遺骨が入ったお守り袋を取り出した。
(ありがとう、美智子……俺は、お前の声を聞いた。助かったのは、そのお蔭だ。俺は……もう思い出の中にしか、お前はいないのかと思っていたよ。でも違った。お前は、いつも俺の側にいてくれてるんだな)
 昇は微笑むと、お守り袋を握りしめながら、街灯に照らされた道を歩き出した。


家族のかたち 丸山朱梨×木滝りま
ふたりのシングルマザーが、短歌→小説と連詩形式でつむぐ交感作品集。歌人の丸山朱梨と、脚本家の木滝りま。それぞれの作品から触発された家族の物語は、懐かしくも、どこか切ない。イラストは、コイヌマユキによる描き下ろし作品。
この記事を書いた人
小説/木滝りま(きたき・りま)
茨城県出身。脚本家。小説家。自称・冒険家。大学生の息子がいるシングルマザー。東宝テレビ部のプロットライターを経て、2003年アニメ『ファイアーストーム』にて脚本デビュー。脚本を担当したドラマ『運命から始まる恋』がFODにて配信中。https://www.and-ream.co.jp/kitaki-rima

短歌/丸山朱梨(まるやま・あかり)
1978年、東京都生まれ。歌人。「未来短歌会」会員。小学校5年生の息子がいるシングルマザー。https://twitter.com/vermilionpear

イラスト/コイヌマユキ(こいぬま・ゆき)
1980年、神奈川県生まれ。イラストレーター。多摩美術大学グラフィックデザイン学科非常勤講師。書籍の装幀やCDジャケットなど多方面で活躍。「Snih」(スニーフ/“雪”の意味)として雑貨の制作も行う。https://twitter.com/yukik_Snih