【第26回】夕暮れの公園とお父さん

 お気に入りの喫茶店を出ると、まぶしいくらいに青かった初夏の空が、水で薄めたような色になっていました。
 世界は、夕暮れまであと少し。
 気温も少し下がり、いい風が吹いていました。
 ぼくは近くの公園へと歩いていき、隅っこにあるベンチに腰掛けました。少しのあいだ、読書でもしようと思ったのです。
 新型コロナのニュースでうんざりするような日々でも、この公園にはたくさんの子供たちが集まり、元気よく歓声をあげて走り回っています。もちろん、そんな子供たちを見守っているお母さんたちの姿も多く見られます。お母さんたちのほとんどは、いわゆる「公園デビュー」を済ませているのでしょう、いくつかのグループに分かれて、それぞれ井戸端会議に花を咲かせていました。
 ぼくはバッグのなかから文庫本を取り出し、栞をはさんであるページを開きました。すると、どこからかベビーカーを押した若いお父さんが現れて隣に腰を下ろしました。年齢は30歳くらいかな。
 ベビーカーに乗っているのは女の子の赤ちゃんで、コンビニの袋をおもちゃにして遊んでいました。
「おい、危ないことすんなよっ」
 お父さんが、遊具の方に向かって声をかけました。その声の方を見ると、5歳くらいの息子くんがこちらを振り向いて、いたずらっぽくニカッと笑って見せました。
「ふう……」
 くたびれたようにため息をついたお父さんは、スマートフォンを手にして画面に視線を落としました。
 ベビーカーに乗っていた赤ちゃんが、こちらに気づいて不思議そうな顔をしたので、ぼくは思わず顔の横で小さく手を振りながら、さっきの息子くんみたいにニカッと笑いかけてみました。
 すると、赤ちゃんもニコニコに。
 うはぁ、可愛い──。
 お父さんがスマートフォンをいじっているあいだ、ぼくは赤ちゃんと表情だけで(変顔含む)会話を愉しませてもらいました。
 しばらくしてスマートフォンから顔を上げたお父さんが、赤ちゃんとにらめっこをしているぼくに気づきました。
「あっ、なんか、すみません」
「いえいえ。可愛くて、つい。何ヶ月ですか?」
「えっと──、もうすぐ8ヶ月になります」
 そんな定型文みたいな会話をきっかけに、ぼくらは、ぽつり、ぽつり、と世間話をしはじめました。
 若いお父さんいわく、転勤で引っ越してきたばかりで、この公園に来るのもはじめてとのことでした。
「いつもは嫁さんが子供たちを連れてくるんですけど、今日は風邪で病院に行ってて、ぼくが代わりに。でも、なんか……」
 言葉の続きを待っていると、彼は後頭部を掻きながら、ちょっと照れ臭そうに笑いました。
「周りがお母さんばかりで……。男は居場所がないんですよね」
「ああ、そうなんですよね。ぼくもそうだったなぁ」
「やっぱり、そうでしたか」
 ふいにベビーカーの赤ちゃんが、何やら可愛らしい声を上げました。お父さんは、そっと赤ちゃんを抱き上げて、そして、ちょっとくたびれたように微笑みました。
「引っ越してきてから仕事が忙しくて、ぼくはあまり子供たちと遊んでやれなくて……」
 そう言いながら遊具で遊んでいる息子くんを見つめる横顔が、ちゃんと「お父さん」だったので、ぼくは勝手に幸せな気持ちになってベンチから腰を上げました。
「じゃあ、ぼくは、そろそろ」
「あ、はい。ありがとうございました」
 歩き出したぼくの足元からは、長い影が伸びていました。
 公園を走り回る子供たちも、井戸端会議のお母さんたちも、みんなが自分の長い影を踏んでいます。

長い影が伸びる夕暮れの空気感が好き

 ぼくは、お父さんに抱っこされた赤ちゃんにもう一度だけ手を振って、その公園を後にしました。
 コンビニに立ち寄って、何かしら懐かしいお菓子でも買って帰ろうかな──、なんて思いながら。
(写真は全て筆者撮影)

この記事を書いた人
森沢 明夫(もりさわ・あきお)
1969年、千葉県生まれ。小説家。早稲田大学卒業。
吉永小百合主演で映画化された「虹の岬の喫茶店」をはじめ、有村架純主演の「夏美のホタル」、高倉健主演の「あなたへ」など、映画やドラマとして話題になったベストセラーが多い。また、エッセイ、絵本、作詞なども手掛けている。近刊には「おいしくて泣くとき」「森沢カフェ」「ぷくぷく」「水曜日の手紙」「雨上がりの川」などがある。