#8「デュアルライフ」 木滝りま
 山の中腹にある見晴らしのいい丘から下を眺めると、週末だけの我が家が見える。7年前に買った百坪ほどの土地に建つ古民家は、周囲の景色に溶け込み、風情ある佇まいを見せていた。
 デュアルライフという言葉を、松下桐子が知ったのは、ここ、奥秩父の山間にある古民家を購入したのと同じ時期──7年前だ。週末だけの田舎暮らし。普段とは全く違う環境でディープな時間を過ごす。そういう生き方があることを知った瞬間、桐子は熱に浮かされたように、そのことばかりを考え続けた。
 当時、36歳。外資系証券会社の営業マンとして生き馬の目を抜く生活を送っていた桐子にとって、それとは真逆の、ゆっくり丁寧に生活を楽しむ時間が持てることは、限りなく魅力的に思えたのだ。
 不動産会社が主催する古民家巡りツアーに参加して、この物件を目にした瞬間、桐子は即、購入を決めた。ほとんど一目惚れに近い出会いだった。あれから7年の歳月が流れたが、桐子がその出会いを後悔したことは一度もない。
「おーい!」
 家の裏手の川の岸辺で釣りをしていた魚住基樹が、桐子の姿に気づいて手を振った。
「ヤッホー!」
 桐子も、おどけた様子で手を振り返す。そして急勾配の斜面をそろそろと下り、川中にある飛び石を渡って、基樹のいる場所へとやって来た。
「どう? 今日の釣果は?」
 桐子が弾んだ声で尋ねる。「まあまあかな」と基樹は、傍らのバケツを目顔で指した。バケツの中を覗き込み、桐子は微笑みを漏らす。
「アマメにイワナにニジマス……上等じゃない」
「……で、そっちは?」
「こっちも収穫有りよ」
 桐子は答えると、背中に背負っていたカゴをおろし、採った山菜を基樹に見せた。
「おおっ、こりゃすごい!」
 カゴの中の山菜を見て、基樹は声を上げる。
「こしあぶらは、天ぷらが旨いかな。こっちの山うどは、さっとゆがいて酢味噌合えにしよう。せりは、お浸しってところかな」
「案外、リッチなお昼ご飯になりそうね」
「そりゃそうさ。川で釣った魚や採れたての山菜が食えるなんて、都会人の俺らからしたら贅沢の極みだよ」
「お金では買えない贅沢よね」
 桐子と基樹は、そんなことを言いながら、笑い合った。
 桐子が基樹と出会ったのは、3年前。顧客に招かれたパーティーの席だ。IT企業の社長をしている基樹は文字通りのリッチマンで、お金で買える贅沢を知り尽くした男だった。そんな基樹を週末だけの田舎暮らしに引き込んだのは、桐子である。最初は土に触れるのも躊躇っていた基樹だが、根が凝り性なのか、研究に研究を重ね、今では桐子以上の田舎暮らしの達人となっていた。
 囲炉裏では、串に刺した魚がいい具合に焼けていた。囲炉裏のまわりを取り囲むテーブルの上には、陶器の皿に盛った天ぷらや、ご飯やみそ汁の椀が並べられている。テーブルは、去年、基樹がDIYで作ったものだった。
「いただきます」
 桐子と基樹は唱和し、箸に手を伸ばす。基樹は味噌汁をひと口啜ると、炊き立てのご飯を搔き込んだ。
「うん、旨い! 本物の釜で焚いたご飯は、やっぱりひと味違う」
 基樹は、桐子より10歳年上の53歳だ。以前は、高血圧とコレステロール値の高さに悩まされていたが、この生活を始めてから、数値が正常に戻ったという。
 桐子も、料理に箸を伸ばした。ご飯と味噌汁以外は、すべて基樹が作ったものだった。
「天ぷらも酢味噌合えも美味しい。料理の腕、上げたんじゃない?」
 桐子が褒めると、基樹は嬉しそうに笑う。
「だろ? 自分でも田舎暮らしがこんなに似合う男だとは思わなかった。いっそのこと君と結婚して、ここに永住しちゃおうかなぁ」
「え?」
 桐子は一瞬、真顔になる。すると、基樹はあわてて言った。
「はは、冗談だよ、冗談」
「……だよね。びっくりしたぁ」
 気まずい空気を払拭するように、桐子は話題を変えた。
「ねえ、お味噌汁の味はどう? 庭の畑で採れた小松菜とジャガイモを入れてみたんだけど」
「旨いよ。さすがは畑で採れた野菜だよな。味が深いっていうか」
「今度、トマトも植えてみようかと思ってるの」
「トマト? いいね。じゃあ俺は、庭に石窯を作ろう」
「え、石窯?」
「トマトと言えば、あれだろう? ピザ! 一度、石窯でピザを焼いてみたいって思ってたんだ」
「ピザ、いいね。ビールのお供にちょうどいい」
「トマトにモッツァレラにアンチョビに……それと、スライスしたオリーブも載せて……そうだ。いっそのこと、オリーブの木も植えようか?」
「話がどんどん盛り上がってくね」
 ふたりがピザを作る話に夢中になっていると、棚の上で充電中の基樹のスマホが鳴った。再び沈黙が訪れ、ふたりは黙り込む。
「……出なくていいの?」
 桐子が、箸を動かしている基樹に尋ねた。
「ここにいる時は、俗世間のことは忘れるって、お互いに約束したろ?」
「別にそんな……厳密に考えなくても。私だって大事な取引先の電話には出るよ」
「……」
 基樹は、しばらく迷っていたが、電話が鳴り止まないので、立ち上がり棚の方へ行く。電話に出ようとスマホを手に取るが、通話はせず、すぐに棚に戻した。
「出る前に切れてた」
 基樹は、桐子を振り返って言う。
「……ひょっとして奥さん?」
 桐子が問い返すと、基樹は「ああ」と気まずそうに答えた。
 基樹は、既婚者だった。妻との間には、20歳と16歳の娘がいるらしい。つまり桐子と今こうして田舎暮らしを楽しんでいることは、通常の概念で考えれば不倫だった。
「ねえ、本当に大丈夫?」
「何が?」
「奥さん、何か勘付いてるんじゃない?」
 桐子は、前々からそのことが気になっていた。不倫と言えば、普通は平日の夜に会うのが定石である。なのに、基樹と桐子は、毎週土日に隠れ家のような山奥の一軒家で逢瀬を重ねていたのだ。それを妻が変に思わないほうが、むしろ不思議な気がした。
「大丈夫。疑ってなんかいないって」
 基樹は、笑いながら言った。
「うちは、娘ももう大きいし、週末は夫婦それぞれ好きなことをして過ごそうってことになってるんだ。妻は根っからの都会っ子で、ジョッピングと女子会にしか興味がない。俺は、週末はソロキャンプをしてるってことになってるから」
「ほんと? 奥さんが包丁持って押しかけてきて、修羅場……なんてことになったら、私、やだからね」
「その点に関しては、絶対にないって保証するよ。家内は、虫を見ると卒倒するんだ。超がつくほどの田舎嫌いで、舗装した道路以外は歩けない」
 ふたりのいる古民家は、駐車場の裏手にある登山道を少し歩かなければ、辿り着けない場所にある。車で直接来ることはできない。
「そう? じゃあ大丈夫かしら?」
「いずれにせよ、君に迷惑はかけないよ。……で、話は元に戻るんだけど、ピザを焼く石窯ってさ、専用のキッドとかあって簡単に作れるらしいね」
 基樹は、石窯作りのことを熱く語り始めた。桐子はうなずきながら、彼の話に耳を傾ける。基樹のスマホが再び音を立てたのは、その時だった。
「……」
「ねえ、出たほうがいいんじゃない?」
「……あ、ああ」
 基樹は、電話に出る。そのまま、スマホを手に隣の部屋に消え、何やら話し込んだ。その後、蒼白な顔で戻ってくると、基樹は桐子に言った。
「……すまん。ちょっと出てくる」
「どうかしたの?」
「家内が近くに……」
「え?」
「いや、あり得ないよな。きっとカマをかけているんだと思う。ちょっと様子を見てくる」
 基樹は、蒼白な顔のまま、部屋を出ていった。桐子は心配になり、あとを追う。隣の部屋から土間に下り、玄関の引き戸を開けて庭を覗くと、そこには基樹以外に、ひとりの女の姿があった。
 女は、縦ロールの茶髪ロングヘアーに、ピンクのシャネルスーツ姿。厚化粧で若作りをしているが、年の頃は40代後半といったところ。基樹の妻と思われる。
 妻は、ピンヒールの片足が土の中に埋まってしまったらしい。しかめっ面をしながら、しばらくもがいていたが、やがて忌々しげな顔で足を引っこ抜くと、ズカズカと畑の中を歩いて、庭に出た基樹に近づいていった。
(あそこ、種まいたばっかりなんだけどなぁ……)
 桐子は、場違いなことを思いながら、引き戸の隙間からその様子を見守る。
 基樹と妻は、何やら言い争いを始めたようだ。桐子のいる場所から、はっきりとは聞き取れないが、文句を言っているのは主に妻のほうで、基樹のほうは言い訳に終始している様子だった。
 ……と、次の瞬間、妻の平手打ちが基樹の頬に飛んだ。泣きながらその場を去っていく妻を、基樹はあわてた様子で追いかけていく。
(あーあ……終わったな)
 基樹との3年に及ぶ週末だけの田舎暮らしは、これでジ・エンドを迎えたと、桐子は悟った。超がつくほどの田舎嫌いの妻が、夫を取り戻すために、山道を自らの足で歩いて登ってきたのだ。それだけ本気だということだった。
 基樹は、もう二度と、この家に戻ってくることはない。庭にピザを焼く石窯を作る計画も白紙になった。そう思うと、なんだか少し残念な気がしたが、修羅場に巻き込まれなかっただけマシだったと、桐子は思った。
 その日の午後。桐子は、縁側に座って日が暮れるまでひとり缶ビールを飲みながら過ごした。基樹が妻と去ったあとの庭は、やたら広く感じられ、夕陽が目に染みる。
(また新しいパートナーを探さなきゃなぁ……)
 そんなことをぼんやり考えながら、暮れなずむ景色を眺めた。
(でも彼以上の相手が見つかるかしら……?)
 桐子は、これまで何人かのパートナーと、この古民家でデュアルライフを送った。しかし基樹ほど田舎暮らしに向いているパートナーはいなかった。
 ……いや、正確にはひとりだけ、基樹以上に順応したパートナーがいた。その男は独身で、田舎暮らしにのめり込んだ結果、田舎に永住しようと言い出した。彼は、桐子と結婚し、子供を持つことを望んだのだ。自分がライターをして稼ぐので、桐子には仕事を辞めて欲しいとも言った。
 桐子は悩んだ。結局、仕事を辞める踏ん切りはつかず、彼と別れる道を選んだのだった。
(私って、欲張りなのかな)
 人は、何かを得るためには、何かを捨てなければならないという。しかし桐子は、一度しかない人生を、すべて自分の欲するままに生きたいと考えていた。
(仕事をしている平日も、田舎暮らしをしている土日も、私はどっちも好き。どっちも捨てられない。デュアルライフ……これが私にとっての一番の生き方なのかも……)
 桐子は、夕陽に向かって缶ビールを掲げると、「乾杯」とつぶやく。それから、いっきにそれを飲み干した。

家族のかたち 丸山朱梨×木滝りま
ふたりのシングルマザーが、短歌→小説と連詩形式でつむぐ交感作品集。歌人の丸山朱梨と、脚本家の木滝りま。それぞれの作品から触発された家族の物語は、懐かしくも、どこか切ない。イラストは、コイヌマユキによる描き下ろし作品。
この記事を書いた人
小説/木滝りま(きたき・りま)
茨城県出身。脚本家。小説家。自称・冒険家。大学生の息子がいるシングルマザー。東宝テレビ部のプロットライターを経て、2003年アニメ『ファイアーストーム』にて脚本デビュー。脚本を担当したドラマ『運命から始まる恋』がFODにて配信中。https://www.and-ream.co.jp/kitaki-rima

短歌/丸山朱梨(まるやま・あかり)
1978年、東京都生まれ。歌人。「未来短歌会」会員。小学校5年生の息子がいるシングルマザー。https://twitter.com/vermilionpear

イラスト/コイヌマユキ(こいぬま・ゆき)
1980年、神奈川県生まれ。イラストレーター。多摩美術大学グラフィックデザイン学科非常勤講師。書籍の装幀やCDジャケットなど多方面で活躍。「Snih」(スニーフ/“雪”の意味)として雑貨の制作も行う。https://twitter.com/yukik_Snih