南條 竹則

第5回【後編】荷風と「支那飯」

 言葉が同じ意味を持つ新単語に取って代わられることは、年中起こっている現象だ。
 その現象の過渡期に、新旧の語が両方とも通用する一時期がある。
 わたしが幼い頃の「支那そば」と「ラーメン」がそうだった。大人たちが「シナソバ」と言った声の響きがまだ耳底に残っているような気がする。
「支那そば」は今も時たまラーメン店の看板などに見かけるが、「支那料理」という言葉はとんと聞かなくなった。それにもまして耳遠くなったのが、「支那飯しなめし」という単語である。
 わたしがこの稀語きごを知っているのには、個人的な理由がある。
 昭和33年に渡仏したきり何年も帰って来なかった父親が、その後仕事で日本とフランスを行来するようになった。日本へ来ると、夕食に連れて行ってくれる。そんな時、
「今日は何を食いたい? 洋食か? それとも、支那飯でも食うか?」
 などといたからだ。
 父もさすがに今では「中華料理」というが、長く日本にいなかったため、Chinese foodを意味する単語の入れ替わりを知らなかったらしい。当時は漢字を旧字体で書いていたくらいだから、この単語もガラパゴスゾウガメ的に父の頭の中に残ったのだろう。
 永井荷風の文章を読んでいると、この「支那飯」という単語に何度も出くわす。
『断腸亭日乗』に例を取ると、昭和8年10月30日の記に曰く──

「夜半酒泉氏タイガ女給二三人と仲通の支那飯屋銀河に至る。此家の主人 石原氏 は去年の暮あたりまで風月堂側にて永年煙草小売店を開きゐたりしなり。」(『荷風全集』第21巻259頁)
 昭和13年4月25日の記には──

「帰途踊子達と柴崎町横丁の支那飯屋に少憩してかへる。」(『荷風全集』第22巻268頁)
 昭和13年5月14日の記に出て来るのも、たぶん同じ店だ。

「練習終りて後踊子道子絹子の二人と芝崎町の支那飯屋に飰し吉原仲の町を過ぎて麻布にかへる。」(同274頁)
 ここにいう芝崎町は今の浅草ビューホテルの裏あたりである。
 荷風は『断腸亭日乗』大正11年5月14日の記に、都内に「支那料理店」が流行はやっていることに言及している。フカヒレが食べられるような本格的な中国料理店を言っているようだが、彼は「支那料理店」と「支那飯屋」を区別して使っていたのだろうか?
 日記の記述ではハッキリしないが、彼の小説に登場する「支那飯屋」は、昨今うところの「町中華」である。
「かし間の女」(昭和2年5月作)に、こうある──

「宮田さん。御馳走が来ましたよ。」と二階の下から荒物屋の女房が誂へた支那飯の来たことを知らせる。」(『荷風全集』第8巻58頁)
「踊子」(昭和19年正月稿)には「支那飯屋」のみならず「支那屋」という言葉も出て来る。

千代美はわたしがわざとしたものと思込んだらしく、そのままもたれかかつて、
「兄さん、秘密よ。誰にも言つちやいや……。」
「あたり前さ。馬鹿。」いきなり抱きすくめ接吻をした後、「午後一時半、おれは支那屋にゐるよ。おいでよ。いいか一時半だよ。」(『荷風全集』第10巻29頁)」
 この店は「松竹座の筋向の路地を入つたかどにある支那飯屋の事です。」(30頁)とある。
約束の時間通り、千代美が店にやって来ると、「わたし」は千代美の「手を取つて片隅のテーブルに並んで腰をかけさせ、チヤウシユウとフウヨンタン、御飯しん香をあつらへ」(同31頁)る。
 そのすぐあとに「わたしが玉子焼に醤油をかけてやる」というくだりがあるのを見ると、「フウヨンタン」は「芙蓉蛋」、すなわちカニ玉であることがわかる。
「支那飯屋」はの有名な「濹東綺譚」にも登場する──

 九州亭といふネオンサインを高くかがやかしてゐる支那飯屋の前まで来ると、改正道路を走る自動車のが見え蓄音機の音が聞える。(『荷風全集』第9巻156-7頁)
 しかし、戦後間もなく「支那」という語を使うべきでないという主張が強烈に起こり、この語は歴史的文脈以外ではほとんど死語となった。漢文学者の青木正児まさるなど、これに異を唱えた文人もいるが、荷風はどうしたろうか?
「裸体」(昭和24年11月稿)という短篇を見ると、こんなくだりがある。

 丁度今日は朝も昼も何も食べずにゐたので、左喜子は……とある中華料理屋の店に入つて戸口に近い卓子に腰を掛けた。(『荷風全集』第11巻19頁)
 気難しい文明批評家も、この点は素直に世間に従ったのだ。


この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に小説『あくび猫』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)