第5回 われら、君なき今をいかんせん──芥川と泉鏡花

流通経済大学准教授 乾英治郎

 芥川龍之介は1925(大正14)年から1927(昭和2)年にかけて、春陽堂の『鏡花全集』の編集委員に参加する。芥川にとって、これが春陽堂における最後の仕事となった──。本連載、堂々の最終回。


泉鏡花の全集を編む
「高野聖」などで知られる文豪・泉鏡花の自筆「年譜」(『現代日本文学全集 第14篇 泉鏡花集』改造社、1928)の1927(昭和2)年7月の項には、次のように記されている。
七月、期に遅るゝこと八ヶ月にして、「全集」成る。この集のために、一方ならぬ厚意に預りし、芥川龍之介氏の二十四日の通夜の書斎に、鉄瓶を掛けたるまゝの夏つめたき火鉢の傍に、其の月の配本第十五巻、おほひを払はれたりしを視て、思はず涙さしぐみぬ。
 文中にある「全集」とは、春陽堂から刊行された『鏡花全集』のことである。編集委員を小山内薫・谷崎潤一郎・久保田万太郎・里見弴・水上瀧太郎、そして芥川龍之介の6名が務め、1925(大正14)年7月から丸2年間の歳月をかけて全15巻が刊行された。
 最終巻が刊行されてから間もない1927(昭和2)年7月24日未明、芥川は服毒自殺を遂げる(享年35)。結果的に、『鏡花全集』の編集が、春陽堂における芥川の最後の仕事となった。

1927(昭和2)年の芥川龍之介(5月撮影)。生前最後の写真ともいわれる。

 芥川にとって、泉鏡花は特別な存在であった。アンケート回答「文学好きの家庭から」(『文章倶楽部』1918・1)の中で、高等小学校時代に読んだ「小説らしい小説は、泉鏡花氏の『化銀杏ばけいちょう』が始めてだつたかと思ひます」と述べている。旧制中学校に進んでからは、「小説では泉鏡花のものに没頭して、そのことごとくを読んだ。その他夏目さんのもの、森さんのものも皆大抵読んでゐ」たという(随筆「私の文壇に出るまで」同、1917・8)。後に師匠筋となる夏目漱石や森鷗外の文学に先んじて、鏡花文学を愛読していた芥川の様子がうかがわれる。
 そんな芥川と鏡花が出会ったのは、前掲の鏡花「年譜」によれば1920(大正9)年の「六月の頃」だという。しかし、本格的な交流に発展するようになるのは、やはり『鏡花全集』の刊行がキッカケであった。

泉鏡花(1925=大正14年頃撮影)

 1925(大正14)年5月、春陽堂の文芸雑誌『新小説』の臨時増刊号「天才泉鏡花」が刊行された。中村星湖のような大御所から川端康成ら新進気鋭の作家まで、多数の文学者が鏡花の人や文学を論じた総力特集である。巻末の『鏡花全集』の広告頁に、「鏡花全集目録開口」(本文表題無し、目次「開口」)および「鏡花全集の特色」という文章が掲載されている。いずれも全集編集委員が連名で文責を担っているが、実際の執筆者は芥川であった。
「鏡花全集目録開口」は「鏡花泉先生は古今に独歩する文宗なり」に始まる美文調で、「羅曼ロマン主義の大道」の開拓者としての鏡花の三〇余年にわたる文業を礼賛したものである。「鏡花全集の特色」では、鏡花の文章について「殆ど日本語の達し得る最高の表現と称しても好い」と述べられている。他にも、書評「鏡花全集に就いて」を『東京日日新聞』(1925・5・5~6)に寄稿するなど、同全集に対する芥川の貢献ぶりは並々ならぬものがあった。

『新小説』臨時増刊号「天才泉鏡花」表紙と「鏡花全集目録開口」。

 鏡花は「鏡花全集目録開口」を読み、「とる手も震へ候ばかりに感銘浅からず存じ候」(書簡下書きより)と記した礼状を芥川に送っている。これが単なる世辞ではなかったことは、鏡花が「鏡花全集目録開口」「鏡花全集の特色」の自筆原稿を芥川から譲り受けていることからもわかる。芥川没後になるが、鏡花は自著『斧琴菊よきこときく』(昭和書房、1934)の表紙見返しに「鏡花全集目録開口」の原稿を使用している。
 一方、鏡花の礼状を受け取った芥川は、返礼の書簡の中で「開口の拙文御よろこび下されかたじけなく候」と応じ、執筆中は「少々逆上の気味にてまぶちのうちに異状を生じ候」と報告している(1925・3・12付)。少年時代から愛読していた鏡花文学を評するに際して、冷静ではいられなかった芥川の興奮が伝わってくる。視覚の異変に関する報告についても、感情の高ぶりを効果的に伝えるレトリックとして受け取るべきであろうが、晩年の芥川を悩ませていた歯車現象(歯車状の幻影が見える視覚異常で、遺作「歯車」にも描かれている。「閃輝せんき暗点」という症状だと考えられる)との関連も想起される。
 いずれにせよ、この書簡が書かれた時点で、芥川に残されていた時間は2年半足らずであった。

芥川龍之介と河童
 芥川の命日である7月24日は、「河童忌」と呼ばれる。最晩年に中編小説「河童」(『改造』1927・3)を発表していることに加え、それ以前から河童をモチーフにした短歌や墨絵を数多く残していることにちなんでいる。

芥川が描いた河童図。これと似たような図が何枚も残されている。

 河童と言えば、芥川は自裁する1か月半ほど前、1927(昭和2)年6月10日付の書簡の中で、「近頃泉先生より河童の話をいろいろ伺い候」と書いている。文中の「泉先生」が鏡花であることは言うまでもない。芥川と鏡花の交流の深まりを感じさせると共に、妖怪変化を愛好する作家同士の間でどのよう河童談義が交わされたのか、興味は尽きない。ちなみに、この書簡の宛先は日本民俗学の父・柳田國男であった。
 柳田國男は1914(大正3)年に、河童に関する考察をまとめた『山島民譚さんとうみんたん集』を自費出版している。購入者の中に、当時満22歳だった芥川と、満40歳の鏡花がいた。この本から得た河童のイメージを元に、芥川は「河童」(前出)、鏡花は「貝の穴に河童の居る事」(『古東多万』1931・9)をそれぞれ創作している。後年、柳田は自叙伝『故郷七十年』(のじぎく文庫、1959)の中で、芥川と鏡花を「河童のお弟子」と呼んでいる。
 ところで、芥川には「河童」という題名の小説がもう一つあるのをご存知だろうか。こちらは『新小説』の1922(大正11)年5月号に掲載された短編小説である(同じ号に、本連載【3】で紹介した講演記録「ロビン・ホッド」も掲載されている)。主人公は「一匹の河童」であることが冒頭で示唆されているが、芥川がインフルエンザにかかったため、本題に入る前に中絶したまま未完となっている。

『新小説』の「河童」(1922・5)と『改造』の「河童」(1927・3)。

 さらにその前年の1921(大正10)年には、『大阪毎日新聞』夕刊に1月上旬から「河童」という題名の小説を連載する旨の予告を出しておきながら、「さし当たり気分がさうならない」という理由で、怪奇小説「奇怪な再会」の連載に切り替えている。
 いわば「三度目の正直」で、ようやく小説として完成したのが、1927(昭和2)年の「河童」だったのである。河童の国を舞台にした奇想と風刺に満ちた物語は、現在では芥川の代表作の一つとされている。作品内には、晩年の芥川の様々な人生苦が戯画化されて描き込まれていたが、世間の人々がその寓意に気付いたのは、芥川自裁後のことであった。

「娑婆(しゃば)を逃れる河童」と呼ばれる図。自殺する数日前に描かれた。


鏡花、芥川の弔辞を読む
 1927(昭和2)年7月27日、谷中斎場にて芥川の葬儀がしめやかに執り行われた。僧侶の読経が終わると、先輩総代として泉鏡花が霊前に進んだ。鏡花が弔辞を読むのは、師・尾崎紅葉の葬儀以来のことであった。その一部を引用する。
生前手をとりて親しかりし時だに、そのかたちを見るに飽かず、その声を聞くをたらずとせし、われら、君なき今を奈何いかんせむ。おもひ秋深く、露は涙の如し。月を見て、面影に代ゆべくは、誰かまた哀別離苦を言ふものぞ。高き霊よ、須臾しばらくの間も還れ、地に。
 鏡花は当時53歳。18歳年下の作家の早逝を悼む、情愛のこもった弔辞である。鏡花に続き、友人総代の菊池寛が涙ながらに弔辞を読んだことは、前回触れたとおりである。    
 750余名の参列者に見送られ、芥川は現在も、豊島区巣鴨にある慈眼寺じげんじに眠っている。

泉鏡花と菊池寛による弔辞。


芥川龍之介と春陽堂
 最晩年の芥川と春陽堂は、『鏡花全集』の編集以外での接点に乏しかったようである。
 ただし、芥川の訃報に接した泉鏡花は、談話の中で「最近に会つたのは先月末春陽堂の文学全集の講演会のことであつた」(『東京日日新聞』1927・7・25)と語っている。「春陽堂の文学全集」とは、春陽堂が創業50周年記念企画と銘打って1927(昭和2)年6月から刊行を開始した『明治大正文学全集』のことであろう。

芥川の自殺を報じた『東京日日新聞』の記事(1927・7・25)。

 1926(大正15)年末、改造社が1冊1円で『現代日本文学全集』の刊行を開始する。他の出版社がこれに追随したことで、いわゆる「円本」ブームが起こる。春陽堂もこの流れに乗った形だが、これ以降も改造社との熾烈な企画競争を繰り広げることになる。
 芥川は、1927年の2月下旬から5月にかけて、改造社の『現代日本文学全集』の販促のために、病身に鞭打って日本各地で講演を行っている。恐らく、春陽堂もこれと同等の活躍を芥川に望んでいたのであろうが、その死によって果たせぬ夢となった。
 文芸雑誌『新小説』が、1926(大正15)年11月に事実上の休刊になってしまったことも、春陽堂と芥川が疎遠になった一因と考えられる。もしも『新小説』が存続し、「天才泉鏡花」号ばりの豪華執筆陣で芥川追悼特集を編んでいたら──。残念ながら、その機会は永久に失われてしまった。
 とはいえ、春陽堂の文芸誌『新小説』が芥川の文壇デビュー誌であり、かつ編集顧問を担当した唯一の商業誌であったという事実に変わりはない。また、春陽堂が芥川生前に刊行した単行本の点数は、新潮社と並んで最多である。いち早く文庫版の傑作選(ヴエストポケット傑作叢書)を刊行することで、芥川文学を一般読者に普及させたという功績も、忘れてはならないだろう。
 春陽堂が芥川の全作家人生を通じて、最も関係が深い出版社の一つであったことは、いくら強調してもし過ぎることはないのである。

『泉鏡花〈怪談会〉全集』(春陽堂書店)東雅夫・編
~空前の怪談会ブームのいま、よみがえる大いなる原点の書!
アニメや舞台化でも話題を呼ぶ、不朽の文豪・泉鏡花。彼が関わった春陽堂系の三大「怪談会」を、初出時の紙面を復刻することで完全再現。巻頭には、鏡花文学や怪談会に造詣の深い京極夏彦氏のインタビューも掲載。令和のおばけずき読者、待望かつ必見の一冊!

この記事を書いた人
乾 英治郎(いぬい・えいじろう)
神奈川県生まれ。流通経済大学准教授(専門は日本近現代文学)、国際芥川龍之介学会理事。
著書に『評伝永井龍男─芥川賞・直木賞の育ての親』(青山ライフ出版、2017)、共著に 松本和也編『テクスト分析入門』(ひつじ書房、2016)、庄司達也編『芥川龍之介ハンドブック』(鼎書房、2015)等がある。