南條 竹則
第6回 刺身を食わない話【前編】
子供の頃、風邪を引いて寝ている時、よく煮込みうどんを食べさせられた。
鰹だしの醬油味で、葱と油揚が少し入っている。うどんはコシが大事だというが、こいつはコシも何もあったものではない。クタクタに煮てある。
わたしは一種の病人食としてあの味を思い出すが、泉鏡花の文章に、同じやり方でつくった煮込みうどんが出て来た。「雑記」中の「うどんの岡惚れ」(昭和9年5月)に、こんな一節がある。
鰹だしの醬油味で、葱と油揚が少し入っている。うどんはコシが大事だというが、こいつはコシも何もあったものではない。クタクタに煮てある。
わたしは一種の病人食としてあの味を思い出すが、泉鏡花の文章に、同じやり方でつくった煮込みうどんが出て来た。「雑記」中の「うどんの岡惚れ」(昭和9年5月)に、こんな一節がある。
──内ぢやあ、饂飩のたまを買つて、油揚と葱を刻んで、一所にぐらぐら煮て、ふツふツと吹いて食べますわ、あつい処がいゝのです──(岩波版『鏡花全集』巻二十八、546頁)
前後を良く読むと、岡惚れしたのは油揚と葱の味つけにではなく、ぐらぐら煮たうどんの熱さに惚れたのだとわかる。
泉鏡花が病的な黴菌恐怖症だったことはつとに有名だ。
御興味がおありの向きは、嵐山光三郎氏の『文人悪食』に収められた「泉鏡花──ホオズキ」という文章をお読みになると良い。鏡花を知る人々の証言が山ほど紹介されていて、もはや奇人の域に入った潔癖居士の面目がうかがわれる。
黴菌を恐れる人は、煮沸消毒された熱いものを礼賛する。
その一番簡単な例は、「尺牘」に入っている「わたしの好きな夏の料理」(大正7年8月)という短い文章だ。
夏のお料理は体裁よりきどりより何より蠅をたからせないのが第一に候理屈はよしてもアノ汚さツたらありませんからね
煮立てのもの、暑い番茶結構(岩波版『鏡花全集』巻二十八、619頁)
……その上、式の如く、だし昆布を鍋の底へ敷いたのでは、火を強くしても、どうも煮えが遅い。ともすると、ちよろちよろちよろちよろと草に清水が湧くやうだから、豆府を下へ、あたまから昆布をかぶせる。即ち、ぐらぐらと煮上つて、蝦夷の雪が板昆布をかぶつて、踊を踊るやうな処を、ひよいと挟んで、はねを飛ばして、あつつ、と慌てて、ふツ、と吹いて、するりと頰張る。人が見たらをかしからうし、お聞きになつても馬鹿馬鹿しい。
が、身勝手ではない。味はとにかく、ものの生ぬるいよりは、此の方が増だ。(「うどんの岡惚れ」岩波版『鏡花全集』巻二十八、545-546頁)
私は怯懦だ。衛生に威かされて魚軒を食はない。が、魚軒は推重する。その嫌ひなのは先生の所謂蜆が嫌ひなのではなくて、蜆に嫌はれたものでなければならない。(「麻を刈る」岩波版『鏡花全集』巻二十七、390頁)
鏡花はタコが嫌いだったが、ある時、酒席で酔っ払ってわさび醬油でペロペロと食べてしまった。翌日小村雪岱にそのことを言われて、たちまち顔色を変えたという話が、嵐山氏の「泉鏡花──ホオズキ」に出ている。
これは酔った上の振舞いとして納得できるけれども、わたしが首をひねるのは、「尺牘」所収の「鳴濤館より」という宛名のない書簡(明治39年5月)である。ここに全文を引用する。
雨の青葉、かつをのさしみにて、三杯の朝酒妙に候、此の魚は銚子にて、一昨日六百本海のさちありし中の一部分に御座候よし、今微酔の勢にて五目ならべ三番試み申候、急にうまくなりたる春葉君の御手際御目にかけたく、風葉君新案の二目とめ(口伝あり)一同を驚かし候。……(岩波版『鏡花全集』巻二十八、614頁)
これは一体どういうことなのだろう? 一時の気まぐれなのか、鰹は例外だったのか。それとも虚偽を書いているのか──
事情をおわかりの方がいたら、お教えいただきたいものである。
┃この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。
絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。
絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)