眠ってもしばらくここにいてほしい

うれしい、についてふっと思い出した。

つげ義春さんのマンガですごく好きな話があって、奥さんは競輪場の車券売場で働いていて、ふと奥さんに夫が会いにゆく。手に大げさなホータイを巻いて。窓口だから、手しかわからない。

夫がてをさしだして、妻がそのてをにぎる。帰ってきて、妻は胸をおさえながらダダダダと階段をあがってきて、ねえわたしすごくむねがどきどきしちゃった、ほんとなんだかとってもしあわせなきもちだった、と抑えきれずにすごくうれしそうにしている。「やっぱり夫婦ね。あなたの手がわかるもの」

夫は「夕焼けがきれいだね」という。「あらテレているの」 と妻がいう。

ひとがある日すごくうれしくなってしまった話なんだとおもう。夫とひみつで手をにぎったこと。それが妻にとってはうれしさのどまんなかで、やってみるまではわからなかったのに、うれしさがどうしようもなくこみ上げてきて、妻はうれしさを伝えたくて階段を駆けあがってゆく。

ねえかなしくなっちゃった、ってひとに言うことってたくさんあるんだけれど、たまに、ねえうれしくなっちゃった、どうしよう、ってひとに伝える日がある。あなたがうれしさの原因なんだけれど、なんだかすごくうれしくてこまってる、と。

うれしい日だ。


『バームクーヘンでわたしは眠った もともとの川柳日記』(春陽堂書店)柳本々々(句と文)・安福 望(イラスト)
2018年5月から1年間、毎日更新した連載『今日のもともと予報 ことばの風吹く』の中から、104句を厳選。
ソフトカバーつきのコデックス装で、本が開きやすく見開きのイラストページも堪能できます!
この記事を書いた人
yagimotoyasufuku
柳本々々(やぎもと・もともと)
1982年、新潟県生まれ 川柳作家 第57回現代詩手帖賞受賞
安福 望(やすふく・のぞみ)
1981年、兵庫県生まれ イラストレーター