南條 竹則

第7回 二人の母【前編】

 岡本かの子の作品集にも、また諸々のアンソロジーにもよく採られる「鮨」「家霊」「食魔」という三つの短篇が、まことに飲食文学──そういうジャンルがあるとして──の傑作であることは、多くの方がお認めになるだろう。
 わたしはことに「家霊」が好きで、泥鰌どじょう鍋を食べるたびに思い出すが、これについては以前何度か書いたことがあるから、今回は「鮨」の話をしようと思う。
 まだ読んでいない人のため簡単に御説明すると、こういう話だ──
 東京の下町と山の手の境い目にある坂や崖の多い街に「福ずし」という鮨屋がある。腕の良い主人が最初は夫婦二人と娘ともよの三人きりで始めたが、今は職人なども使っている。
 十人十色といろの常連客の一人に、みなとという「五十過ぎぐらいの紳士」がいる。どことなく憂愁の蔭を帯びた人物で、「独身者であることはたしかだが職業は誰にも判らず、店ではいつか先生と呼び馴れていた。」
 ともよは、この男のことがだんだん妙に気になってくる。
 湊が自分に目を向けないと、作りぜきをして気を引いてみたり、彼がほかの常連に人なつこく対応すると、嫉妬したりする。
 ある日、ともよが表通りの虫屋へ行くと、その店から偶然湊が出てくるのにぶつかった。
 二人は近くの空地で休んでゆくが、その時、ともよはこんなことを言い出した。

「あなた、お鮨、本当にお好きなの」
「さあ」
「じゃなぜ来て食べるの」
「好きでないことはないさ、けど、さほどべたくない時でも、鮨を喰べるということが僕の慰みになるんだよ」(『ちくま日本文学26 岡本かの子』筑摩書房 169頁)
 湊はそう言って、自分の少年時代の秘密を打ち明ける。
 湊は次第に没落しつつある旧家に生まれた。
 神経質な子供で、好き嫌いが激しいというよりも、今日で言う拒食症に近いものがあった。

 その子供には実際、食事が苦痛だった。体内へ、色、かおり、味のある塊団かたまりを入れると、何か身がけがれるような気がした。空気のような喰べものは無いかと思う。腹が減るとえは充分感じるのだが、うっかり喰べる気はしなかった。床の間の冷たく透き通った水晶の置きものに、舌を当てたり、ほおをつけたりした。(同171頁)
 母親は当然心配でならない。色々試みた挙句、「玉子と浅草海苔が、この子の一ばん性に合う喰べものだ」ということを知ったが、息子がだんだん痩せてゆくので、心配なだけでなく親として肩身が狭い。母のそんな気持ちを悟った子供は、「平気を装って家のものと同じ食事をした」が、すぐに吐いてしまった。
 そこで母親が思いついたのは、鮨によって、いわば子供を「食」と和解させる試みだった。
 嘔吐した翌日、母親は縁側へ新しい茣蓙ござを敷き、俎板まないたや庖丁や水桶を持ち出した。そして自分の向こう側に子供を坐らせて、膳の上に皿を置く。

 母親は、腕捲うでまくりして、薔薇ばらいろのてのひら差出さしだして手品師のように、手の裏表を返して子供に見せた。それからその手を言葉と共に調子づけてこすりながら云った。
「よくご覧、使う道具は、みんな新しいものだよ。それからこしらえる人は、おまえさんの母さんだよ。手はこんなにもよくきれいに洗ってあるよ。判ったかい。判ったら、さ、そこで──」(同176頁)
 母が最初に握ったのは玉子焼鮨だった。

 はだかのはだをするするでられるような頃合ころあいの酸味に、飯と、玉子のあまみ、、、がほろほろに交ったあじわいがちょうど舌いっぱいに乗った具合──それをひとつ喰べてしまうと体を母にりつけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめた香湯のように子供の身うちにいた。(同177頁)
 母は次に「白い玉子焼だと思って喰べればいいんです」といって、烏賊いかを食べさせる。その次には「色と生臭なまぐさの無い」鯛と比良目ひらめを握る。魚らしくないものから、多少魚的なものへ──握る順序に作戦が練られている。
 こうしたことを数回重ねて、子供は母の手製の鮨に慣らされてゆき、赤貝やさよりなども食べられるようになる。次第に彼の偏食は治り、身体も見違えるほど健康になる。
 これが、鮨を食べることが湊の慰みになる理由だった。

 べつに母と子でなくとも良い。食べさせる者の愛のこもった料理が、食べる者を健康に、あるいは幸せにする──これはけだし美食文学最大のテーマであって、「鮨」もそのテーマに基づく作品といってよかろう。だが、それだけにとどまらないところに、岡本かの子の小説の凄味がある。
 この小説は、「二人の母」とも名づけるべき第二のテーマを含んでいるからだ。
 わたしは泉鏡花の短篇「化鳥けちょう」を思い出す。



この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)