南條 竹則

第7回 二人の母【後編】

化鳥けちょう」──泉鏡花の数ある美しい物語の中でも珠玉というべきこの作品の語り手は、れんという幼い少年である。
 廉は母と二人、橋詰の番小屋に住み、橋を渡る人からもらう橋銭で暮らしている。
 彼の母はもと大家の奥方だったが、夫の死後辛酸を舐めつくして、世間を憎むようになった。いや、憎むどころの話ではなく、人間を獣と見る境地に到って、世外せがいの人というよりも人外にんがいの人になってしまった。
 その母が朝な夕な話を聞かせてお仕込みだから、子供も不思議な色眼鏡ごしにこの世を見ている。
 みのを着て、雨の降る中を歩いて行くのは猪だ。笠を被って、堤防どての上に立って釣りをしているのは一本いっぽん占治茸しめじだ。でっぷり太って威張り返っている紳士は、鮟鱇あんこうだ。代わりに、鳥や、花や、魚はきれいで、人間のようにものを言う。少年の世界は面白い。
 ところが、ある日廉は川に落ち、危ないところを誰かに助けられる。
 助けてくれたのは誰かと母に聞くと、「私がものを聞いて、返事に躊躇をなすったのはこの時ばかりで、(中略)そして顔の色をおかえなすったのも、この時ばかり」だった。母は言った。

れんや、それはね、大きな五色ごしきはねがあって天上に遊んで居るうつくしい姉さんだよ。)(『化鳥・三尺角』岩波文庫38頁)
 ここから、この物語の謎が始まる。
 現実的な解釈をすれば、少年を助けたのは窓から彼の様子を見ていた母親に決まっている。だが、それならなぜ、そう言わないのだろう? おまけに、顔色を変えるというのがわからない。子供にもわからないし、読んでいる我々にもわからない。
 わたしはこんな空想をする。世の中に愛想あいそを尽かした母は、もう人間を廃業して、魔道に堕ちているのではなかろうか。そして不思議な力を手に入れ、それでもって子供を救ったのではなかろうか──
 もとより一つの空想なり解釈なりで片づく話ではない。謎は無限なのが値打ちだから。
 ともかく、廉は姉さんに会いたくて、どこにいますと母にしつこく聞くが、教えてくれない。鳥屋へ行ってみたが見つからない。今度は、昔母の屋敷のうちだった梅林ばいりんを探しているうちに夜になり、子供はいやな心持ちになる。あたりの生き物の気配が身の毛のよだつほど恐ろしく感じられて、いつのまにか自分が鳥になっているのを感じる。彼の存在が崩壊しようとしているのだ。

 この時、背後うしろから母様おっかさんがしっかり抱いて下さらなかったら、私どうしたんだか知れません。それはおそくなったから見に来て下すったんで、泣くことさえ出来なかったのが、「母様おっかさん!」といって離れまいと思って、しっかり、しっかり、しっかりえりとこへかじりついて仰向あおむいてお顔を見た時、フット気が着いた。
うもそうらしい、はねの生えた美しい人は何うも母様おっかさんであるらしい。もう鳥屋には、行くまい。わけてもこの恐ろしい処へと、そののちふっつり。(『化鳥・三尺角』岩波文庫44頁)
 岡本かの子の「鮨」を読んだ方には、筆者がなぜ「化鳥」を持ち出したのか、もうおわかりだろう。
「鮨」の中で、少年時代のみなとは苦しい時、「お母あさん」と呼ぶが──

 子供の呼んだのは、現在の生みの母のことではなかった。子供は現在の生みの母は家族じゅうで一番好きである。けれども子供にはまだ他に自分に「お母さん」と呼ばれる女性があって、どこかに居そうな気がした。自分がいま呼んで、もし「はい」といってその女性が眼の前に出て来たなら自分はびっくりして気絶してしまうに違いないと思う。(『ちくま日本文学26 岡本かの子』筑摩書房 172頁)
 そして母の握る鮨を味わった時──

 子供は、ふと、日頃、内しょで呼んでいるも一人の幻想のなかの母といま目の前に鮨を握っている母とが眼の感覚だけか頭の中でか、一致しかけ一重の姿に紛れている気がした。もっと、ぴったり、一致して欲しいが、あまり一致したら恐ろしい気もする。(同180頁)
 イデア、元型、永遠の女性としての母と肉体を持つ現実の母──現実の母のうしろに永遠の母がチラと見え、ある時両者が重なって、子供を救う──「鮨」も「化鳥」も、そういう図式を当て嵌めることの出来る物語だ。
 無限なるものへの思慕とそれに伴う一抹いちまつの恐怖は、鏡花の華麗な幻想譚を支えるに足るモチーフだが、「鮨」という作品はそれを隠し味にしているのだから並々でない。


この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)