南條 竹則

第8回【後編】 大福餅

 安岡章太郎に「陰気な愉しみ」という短篇がある。
 この小説の語り手は、軍隊で背中に受けた傷のため病気になって、働けない男だ。彼は毎月横浜の役所へ行き、災害給与係の部屋で金をもらう。
 けれども、そのことに罪悪感をおぼえて、役所へ行くたびに言いようのない屈辱を味わう。しかし、それを味わうことがマゾヒスティックな快感にもなっている。すなわち陰気な愉しみである。

 ある時、担当者の査定が甘くて、ふだんより千円も余計に金を支払われた。
 野毛山のてっぺんにある役所から街へ降りて来た男は、この金で飲み食いして映画でも見ようと思う。レストランへ向かうが、どういうわけか気後れがして店に入れない。それではソーセージでも買って帰ろうかと思っても、ショウ・ウインドウのガラスに映った自分の顔を見て、腑抜けそのものではないかと思い、買う気が失せてしまう。

 ソーセージもやめた。私はもはや周囲の何物にも興味をうしなった。ただ歩くことだけはやめなかった。何かに、じりじりしながら歩いていた。すると、角にある一軒の店の、
大ふく。あま酒。大盛ぜんざい。
とかいた大きな看板が私をあるヤケクソな気分に誘いこんだ。子供のときから私はアンコやモチのたぐいを軽蔑しきってきたのだが、いまはあの、白くて、やわらかくて、無智蒙昧もうまいな、甘さのほかには何の芸もない大ふくもちこそ自分にもっともふさわしいものだ、という気がして、白いキャラコののれんを割って入ろうとした。(『ガラスの靴・悪い仲間』講談社文芸文庫159-160頁)
 無智蒙昧な大ふく餅──何という素敵な形容だろう!
 純朴で小難しいことはわからないが、気持ちはどこまでも優しくて、人を甘やかしてくれる、そういう女性のふっくらした顔が、まんまるな白い餅と重なるではないか。
 しかし、語り手が店の中に入ると、苦手な相手と鉢合わせする。彼は慌てて店を飛び出し、大ふく餅を食べることはできなかった。
 安岡章太郎の文章は大ふく(大福)餅を褒めているのかけなしているのかわからないが、お茶と大福が欲しくなる書き方だ。
 一方、同じ大福について、永井荷風が『断腸亭日乗』にじつに印象的な言葉を残している。
 あちこちの女と遊んだ荷風は、カフェ「太牙タイガー」の女給だったお久という女に金をせびられ、初めは少し金をやったが、お久はたびたび訪れて大金を要求する。恐れをなした荷風は派出所に訴え、巡査が来てお久を警察署に連れて行った。
 翌日(昭和2年10月12日)、荷風も警察署に出頭を求められ、警官が荷風と女給にそれぞれ説諭する。
「こんなくだらぬ事で警察へ厄介を掛けるのは馬鹿の骨頂なり、淫売を買はうが女郎を買はうがそれはお前の随意なり、その後始末を警察署へ持ち出す奴があるか」
 と荷風に言い、次に檻房から女を呼び出して言う。
「お前も年は二十七とか八とかになれば男の言ふことを間〔ママ〕に受けることはあるまい、だまされたのはお前が馬鹿なのだ」
 荷風曰く──

 警官の物言ふさま恰も腐つた大福餅を一口噛んでは吐き出すと云ふやうな調子なり、(『荷風全集』岩波書店 第20巻168頁)
 わたしはこのたとえにも衝撃をおぼえた。
 読者諸氏は腐った大福餅の味を御存知だろうか?
 子供の頃、硬くなった大福餅を焼いて食べたけれども、日を置きすぎて中の餡こが酸っぱくなっていることがあった。あの経験から推測すると、腐ったものを生でかじったなら相当不快だろう。
 警官の苦々しい顔つきが目に浮かぶようだ。
 菓子を比喩に使った例で、もっと美しく神韻縹渺しんいんひょうびょうとしたものがある。
 仏文学者の辰野ゆたかといえば、「シラノ・ド・ベルジュラック」の名訳者として知られるが、「鈴木三重吉との因縁」という文章に曰く──

 僕の夢想の島はこの海岸から遥かなる沖に、鶯餅のように霞んでいなければならなかった。(『忘れ得ぬ人々』講談社文芸文庫166頁)
 夢想の島とはエリュシオンか、シテールか、それとも蓬萊島ほうらいとうか。いずれにしても理想郷だ。それが青い水の彼方、春の霞の中にぼうっと浮かんでいる。
 そんなものに見立てられた鶯餅は幸いである。
 大福餅は不幸である。


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この記事を書いた人
文/南條 竹則(なんじょう・たけのり)
1958年生まれ。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。作家、翻訳家。
『酒仙』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。以後、幻想小説、温泉、食文化への関心が深く、著書も多い。主な著書に、小説『魔法探偵』、編訳書『英国怪談珠玉集』など多数。

絵/橋本 金夢(はしもと・きんむ)