第12回:井伏鱒二『仕事部屋』臑坊主と膝小僧

清泉女子大学教授 今野真二
 今回は昭和6(1931)年8月5日に刊行された、井伏鱒二『仕事部屋』(【図1】裏表紙)を採りあげてみよう。

【図1】

【図2】は奥付である。周囲に、右上、右下、左上、左下の順で「春陽堂版」と書かれた2.7㎝四方の正方形の紙、その中央に「井/伏」という正方形の朱印がおされ、「著者検印」のかわりに貼付されている。周囲の字の配置順が珍しいように思われる。「著者検印」もよく観察するといろいろとおもしろい。一方、「著者」や「発行者」などは左から右にすすむ「左横書き」で記され、発行年月日や発行所は右から左へすすむ「右縦書き」で記されている。

【図2】

【図3】は目次部分であるが、ページ数をみればわかるように、「丹下氏邸」から始まって、「先生の広告隊」まで、左から右へすすむ「左縦書き」で記されている。「左縦書き」は珍しい。奥付のように「右縦書き」で印刷することはもちろんできるのだから、目次ではわざわざそうしたということだろう。活字の大きさも(当然わざわざ)天地が揃うように変えられていて、デザインに気配りがされていることがわかる。

【図3】

 この本は、縦が19㎝、横が17.2㎝で、正方形ではないが、それにちかい形をしている。「本文」は左右と上部に十分な余白をとって印刷されていて、もちろん右から左にすすむ「右縦書き」で印刷されている。本書の装幀は画家、陶芸家として活動したはざま伊之助いのすけ(1895~1977)が担当している。硲は岩波文庫『ゴッホの手紙』を翻訳した人物でもある。

 読み始めてすぐに、次のようなくだりがあった。

 いつもお前は、必ずやこの柿の木の瘤へ左の足の踵を載せて、さういふ具合に上仰けざまに寝ころんで、それからお前の左の足の臑ぼうずへ右の足の踵を載せて、何の憚りなく、夕暮れどきまで莨をふかしてばかりゐたらう?(3頁)
「臑ぼうず」は「スネボウズ」を書いたものであろうが、初めて見る語なので、『日本国語大辞典』を調べてみる。『日本国語大辞典』はちゃんと「スネボウズ」を見出しにしており、「ひざがしらのこと」と説明している。使用例として、本書のくだりを載せている。「スネボウズ」の別の使用例を探し出すのは難しそうだ。
「ヒザガシラ」は「ヒザコゾウ」とも呼ぶ。これは筆者も使ったことのある語形だ。「ヒザコゾウ」と「スネボウズ」とを並べると、「ヒザ/スネ」、「コゾウ/ボウズ」で、ネーミングに共通性が感じられる。
 本書を少し読み進めていくと次のようなくだりがあった。
 丹下氏は帽子を脱ぎ、相手の男は鉢巻を脱いで、二人は挨拶を交した。膝に手がとどくほど鄭重に敬礼して、実際に於て彼等は、膝がしらを手でおさへ、敬礼する度ごとに膝を折り曲げる姿で挨拶した。(9頁)
 ここでは「ヒザガシラ」が使われている。「スネボウズ」と「ヒザガシラ」が身体の同じ(ような)場所を指すことばであったとして、その場所を「スネボウズ」と呼ぶ時と、「ヒザガシラ」と呼ぶ時とがあるということだろうか。こういうことは案外とわからない。
 さらに読み進めていくと、「バンゾウ」という、これまた見馴れない語が使われていた。
  聞きますれば、今日のお昼すぎころ乾繭場にまゐりましたので、あちらこちらのことを聞き楽しうございましたとき、おんもと様のことを聞き、うち驚きましたので尚ほよく聞きましたので、松山のバンゾウ人は〈※周旋業者の意―筆者註〉いちいち話してくれましたので、おんもと様が方向がいつまでもへたで折檻を受けたとバンゾウ人が話してくれましたので、バンゾウ人にはよくお礼を言ひ、おんもと様をなつかしくてなりませなんだが、うち驚きましたので帰りには泣き泣き帰りました。(13頁)
『日本国語大辞典』はちゃんと「バンゾウ」を見出しにしている。語義は「売買の仲買人。ばんぞうにん」と説明し、1603年に成った日本語ポルトガル語対訳辞書である『日葡辞書にっぽじしょ』を使用例としてまずあげている。なんと「バンゾウ」は17世紀にはすでに使われている語だった。『仕事部屋』では漢字があてられておらず、片仮名で書かれているので、方言あるいは俗語といった感じで使われているのだろうか。それにしても、こういうことがわかると、日本語の連続性のようなものを実感することができる。
「こんないなげなものは、何にもならんがな!」(24頁)
『日本国語大辞典』は見出し「いなげ」をたてて「変なさま。おかしなさま。いやなさま。「いなげな」の形で連体詞的に用いられることが多い」と説明している。そして、使用例として、本書の例が載っている。
「珍しい」という表現がいいかどうかわからないが、井伏鱒二の『仕事部屋』にはいろいろと「珍しい」日本語が使われている。そして、それは『日本国語大辞典』の使用例としてあげられている。
(※レトロスペクティブ…回顧・振り返り)

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この記事を書いた人
今野 真二(こんの・しんじ)
1958年、神奈川県生まれ。清泉女子大学教授。
著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版、第30回金田一京助博士記念賞受賞)、『振仮名の歴史』(岩波現代文庫)、『図説 日本の文字』(河出書房新社)、『『日本国語大辞典』をよむ』(三省堂)、『教科書では教えてくれない ゆかいな日本語』(河出文庫)、『日日是日本語 日本語学者の日本語日記』(岩波書店)、『『広辞苑』をよむ』(岩波新書)など。